田舎教師ときどき都会教師

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大岡昇平 著『野火』より。戦争を知らない人間は、半分は子供である。

 或る時、川は岸からかしいだ大木の蔭で、巨大な転石の間を早瀬となって越し、渦巻いていた。私は靴を脱し、足を水に浸した。足の甲はいつか肉が落ち、鶏の足のように干からびて、水に濡れにくかった。手の皮膚も骨に張りつき、指の股が退いて、指が延びたように見えた。
 死は既に観念ではなく、映像となって近づいていた。
(大岡昇平『野火』新潮文庫、1954)

 

 こんばんは。巧いなぁと思います。引用の後半部分は特に。丸谷才一(1925-2012)が『文章読本』で修辞技法を説明する際、例文の全てを『野火』とシェイクスピアの諸作品から採用したというだけのことはあります。恐るべし、大岡昇平(1909-1988)。ちなみに前回のブログで紹介した宮崎智之さんの文章も、いつか「文章読本」を書いてほしいって、思わずそうつぶやいてしまうくらい「巧いなぁ」と感じます。

 

 

 にわかファンに対するこのリプライも、巧いなぁ。アルコール依存症になってしまったために、お酒を飲むのはやめた(!)という宮崎さんには酷ですが、その「いつか」に向けて乾杯でもしたくなります。

 

 乾杯。

 

平和(2024.8.9)

 

 平和は既に観念ではなく、映像となって近づいてきた。大岡昇平を始めとする先人のおかげで、文体としても近づいてきた。宮崎さんの文体がまさにそうです。平時の文体。私のこの文体(?)だってそうです。一方、冒頭のそれは、明らかに平時ではありません。

 

 戦時の文体です。

 

 

 戦争を知らない人間は、半分は子供である。

 

 あまりにも重くて、武田泰淳の『ひかりごけ』よりも重くて、半分どころか9割9部くらい子供のように思えました。

 

 自分自身が、です。

 

 

 大岡昇平の『野火』を読みました。2学期が始まってしまったら絶対に手に取らないであろう本で、古典に分類されて、教材研究にもなって、でもちょっと分厚いのはイヤだから薄めの本で、何かいいものはないかなぁと思いながら地元の小さな書店をうろうろしていたところ、大岡昇平と目が合いました。『俘虜記』にするか、『武蔵野夫人』にするか、それとも『野火』にするか。あるいは『レイテ戦記』にするか。さまざまな媒体で引用されたり紹介されたりしている大岡昇平の作品ですが、まだどれも読んだことがありませんでした。教員失格です。

 

 よし、『野火』にしよう。

 

 第3回(昭和26年度)読売文学賞・小説賞を受賞しているから、という理由ではなく、20世紀最大の文学作品のひとつと評されている(Wikipedia)から、という理由でもなく、ただ単にいちばん薄かったから、という理由で選びました。読み終えた今となっては、薄いとか厚いとか、そういう問題ではなく、ただただ、

 

 重い。

 

 雨が降り、木の下に寝る私の体の露出した部分は、水に流されてきた山蛭によって蔽われた。その私自身の血を吸った、頭の平たい、草色の可愛い奴を、私は食べてやった。

 

 太平洋戦争末期。結核のために本隊を追放された主人公の田村一等兵は、極度の飢えと闘いながら、ひとり、野火の燃えひろがるフィリピンの原野をさまよいます。野火というのは、野原の枯れ草を焼く火のこと。極度の飢えというのは、自分の血を吸った山蛭を食べてしまうような飢えのことです。武田泰淳が『ひかりごけ』でテーマにしたカニバリズム(人間が人間の肉を食べてしまう行動)が頭に浮かぶような飢えでもあります。

 

 しかしもし私が古典的な「メデューズ号の筏」の話を知っていなかったなら、或いはガダルカナルの飢兵の人肉食いの噂を聞き、また一時同行したニューギニヤの古兵に暗示されなかったら、果してこの時私が飢を癒すべき対象として、人肉を思いついたかどうかは疑問である。先史的人類が食べあった事実は、原始社会の雑婚と共に、学者の確認するところであるが、長い歴史と因習の影の中にある我々は、嫌悪の強迫なくして、母を犯し人肉を食う自分を、想像することは出来ない。

 

 当たり前ですが、冒頭の引用とこの2つの引用 +《戦争を知らない人間は、半分は子供である》だけでは、重さは全く伝わりません。飢えを癒す手段として人肉を思いついた田村一等兵が、何を思い、どのような行動にでたのか。重さとともに、ぜひ読んで体感してみてください。

 読んでいる途中で横井庄一のことを思い出しました。終戦を知らないまま、グアム島に28年間も潜伏していた元日本兵のことです。何の本で読んだのか、すっかり忘れていましたが、あっ、磯崎憲一郎さんの『日本蒙昧前史』だ(!)とさきほどひらめいたので、

 

 ちょっと再読。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 磯﨑さんの『日本蒙昧前史』も、特に横井庄一のことが書かれているパートは、重いんです。しかし、やはり『野火』の重さとは違います。全く違います。子供と大人くらい違います。1965年生まれの磯﨑さんは、大岡昇平に言わせれば、

 

 半分は子供。

 

 そう考えれば、重さが違うのは当然でしょう。読み終えた後に「何と平和に映ることか、大岡昇平の『野火』を読んだ後の日常は!」と思ったのでそのままポストしました。贈与は受取人の想像力から始まる(!)とは贈与論で知られる近内悠太さんの言葉ですが、今まさにこうやってキーボードを叩きながら享受している平和は、先人からの贈与だなぁと思います。戦争文学という、一冊の本から立ち昇っている野火。

 

 多くの人に目に触れますように。

 

 おやすみなさい。