田舎教師ときどき都会教師

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上野千鶴子 著『情報生産者になる』より。「何を教えるか」と「何を学ぶか」のあいだ。

 上野ゼミの受講生たちから贈られるうれしいことばのひとつに、こんなものがありました。「上野センセは、わたしたちの中からまだ見ぬものを生み出してくれるお産婆さんみたいな存在なのよ」と。そのとおり、「まだ見ぬもの」は、もともとその人のなかに存在しています。それにかたちを与えてこの世に引き出すのが、教育者の役目です。そしてそれが誕生する瞬間に立ち会うのが、教師の醍醐味だと言ってよいでしょう。
(上野千鶴子『情報生産者になる』ちくま新書、2018)

 

 こんにちは。昨日、上記の本の姉妹本(親子本)にあたる『情報生産者になってみた』をブログで取り上げたところ、上野ゼミ卒業生チームのメンバーである竹内慶至さんと大滝世津子さんが反応してくださいました。

 

 

 

 

 

 どちらのコメントもあたたかく、それでいて刺さるところがあって、勇気づけられます。上野ゼミでは徹底的にコメント力を鍛えるそうですが、こういうところにもゼミの成果が現れるのだなぁと、クラスの子どもたちのコメント力も鍛えたいという思いに駆られました。子どもたちにお二方のようなコメント力がつけば、言葉のやりとりを通してクラスがあたたまりますから。

 

 

 上野千鶴子さんの『情報生産者になる』を再読しました。何を教えるかはコントロールできても、何を学ぶかはコントロールできないという上野さんが、コントロール可能な「何を教えるか」について詳述した本です。目次は以下。

 

 Ⅰ 情報生産の前に
 Ⅱ 海図となる計画をつくる
 Ⅲ 理論も方法も使い方次第
 Ⅳ 情報を収集し分析する
 Ⅴ アウトプットする
 Ⅵ 読者に届ける

 

 Ⅱ~Ⅵに、冒頭の引用でいうところの「まだ見ぬもの」にかたちを与えるための技法が、具体例とともに、順を追ってたっぷりと書かれています。上野ゼミ卒業生チームに言わせれば、

 

 技のレパートリー。

 

 先行研究の検討の仕方であったり、研究計画書の書き方であったり、質的情報を分析するための《KJ法のその先へ》であったり。情報生産の技法をしっかり教えることで、まだ見ぬものをしっかり引き出すというわけです。別の表現をすれば、水路をつくって源泉にある水を引き出す、となるでしょうか。小学校でいえば話型指導(「わたしは…だと思います。」「理由は~だからです。」等々)。長女と次女が小学生のときに通っていた学習塾の作文指導でいえば、

 

 いりたまご。

 

 い → 意見
 り → 理由
 た → 体験
 ま → まとめ
 ご → 誤字

 

 日本の国語教育が論理的な文章を書く訓練に欠けていることはすでに指摘しました。社会科学の文章は説得のための文章です。共感や感動のための文章ではありません。「感じたことを感じたままに書く」のではなく、「考えたことを、根拠を示して、論理的に、他人に伝わるように書く」ことが必要です。

 

 とはいえ、小学生についていえば、フリートークで会話に慣れることや、自由記述で書き慣れることも「多いに」必要で、型や技法を重視しすぎると、逆に話せなくなったり書けなくなったり、そして内容が退屈なものになったりすることが「多々」あります。

 かつて小説家の平野啓一郎さんが、こんな話をしていました。

 小説『葬送』の主人公の一人である画家のドラクロワは悩みを抱えていた。それは、最初に描くラフ・スケッチは生き生きとしているのに、手を加えて完成度を高めていくにつれて、その「生き生きさ」がなくなっていくということ。その「生き生きさ」を残すにはどうすればいいのか。

 型に当てはめたり技法を駆使したりすることで失われるものがあるということです。同じような話を菊池寛もしています。曰く《文壇有数の名家の作品を読んで、うまいと感心する。が、心は動かない。投書家程度の人の書いたまずい短篇を読んで、つい心を打たれることがある。こんな場合を、どんなに説明してよいか》云々。これもまた型や技法に関するジレンマではないでしょうか。

 

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 では、なぜ上野ゼミではうまくいっているように見えるのか。そのヒントが教え子たちの手による『情報生産者になってみた』に書かれています。うまくいっている卒業生が書いているんだから当たり前だよ、という生存バイアス的な批判はさておき、情報生産者になった卒業生たちの回顧録に耳を傾けていると、何を教えるかはコントロールできても、何を学ぶかはコントロールできないからこそ、上野さんが解像度を高くして教える側と学ぶ側との間にあるギャップを埋めていることがわかります。教えることをただコントロールしているのではなく、一人一人の学生に合わせて「仏」のようにカスタマイズしながらコンロールしているというわけです。自身もゼミを開いているという、名古屋外語大学准教授の竹内慶至さんが、『情報生産者になってみた』に《この仏教員としての上野千鶴子というあり方は、これからの大学教育において不可欠な要素となってきているのではないか》と書いているのも、そういったことを肌で感じ取ってきたからでしょう。

 

 もうひとつ大事なことがあります。
 それは他の誰のものでもない、自分の問いを立てる、ということです。
 わたしがゼミの指導で自分に課したことがあります。それは学生の問いが何であれ、それに価値の大小や優劣の判断をいっさいしない、ということでした。なぜならすべての問いはわたし自身の問いであり、わたしの問いはあなたの問いではないからです。そして人間には、他人の問いを解くことはついにできないからです。

 

 最後に、目次の「Ⅰ  情報生産の前に」からの引用です。学ぶ側が「自分の問い」を立てることができれば、「何を教えるか」と「何を学ぶか」のあいだにあるギャップを、学び手の側から埋めていくことができます。主体的・対話的に深く、です。だからこそ小学生にも自分の問いを立てる経験を積ませたい。ダン・ロスティンさんとルース・サンタナさんの『たった一つを変えるだけ:クラスも教師も自立する「質問づくり」』にもあるように、子どもたちが自分の問いを生きられる教室にしていきたい。そう思います。

 

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 私の問いは、ありきたりですが「教員の労働問題」に関することです。「何を教えるか」と「何を学ぶか」のあいだを埋めるためには、すなわち教室を上野ゼミのようにするためには、担任にも子どもにもゆとりが欠かせません。月の残業時間が平均で90時間(小学校)なんてことが、なぜ放置され続けているのか。

 

 まだ見ぬもの。

 

 自分で、引き出したい。