田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

坂口恭平 著『躁鬱大学』より。非躁鬱人であっても「これは私のことだ」と思える「言葉」に出会えます。

 われわれ躁鬱人は、完全に鬱になる前にカンダハシが指摘するように「しっかりしなければ」と考え始めてしまってます。もしくは「きちんとしなければ」という言葉を使う人もいるでしょう。ちゃんとしないと、とか、真剣に取り組まないと、とか、物事の深刻さを理解しないと、とか、ときどきできもしないのに誰から教わったのか、突如顧みようとする、例のアレです。
(坂口恭平『躁鬱大学』新潮社、2021)

 

 こんばんは。せっかくのゴールデンウィークなのに、運動会のダンスの振り付けを考えないと、とか、修学旅行のしおりをつくらないと、とか、考え始めてしまって困ります。連休が終わる前に「きちんとしなければ」、もっと困ることになるのでやむを得ず。とはいえ、躁鬱人の坂口恭平さんが言うように《ちゃんとしなきゃと感じるのはどういうときかというと、簡単に言うと、やりたくないとき》なので、要するに「振り付け」も「しおり」もやりたくありません。しかもコロナの状況如何によっては運動会も修学旅行もなくなるかもしれないという「アカルイミライ」ならぬ「曖昧な未来」です。進むも地獄、退くも地獄。気分の波は大きくなるばかり。ソクラテスことカンダハシさんの言葉に《「不自由な状況に対して、『しっかりしなければ』と耐えていると、躁鬱の波が大きくなります」》とありますが、まさにその通りです。プラトンこと坂口さんだってこう言っています。

 

 

 子どもでも躁鬱人でもありませんが、吐露します。連休中にただ働きなんてやってられるか~。

 

 

 坂口恭平さんの『躁鬱大学:気分の波で悩んでいるのは、あなただけではありません』を読みました。31歳のときに双極性障害、すなわち躁鬱病と診断された著者が、同じ体質をもつ躁鬱人に向けて、否、著者自身に向けて「健やかに生きていくための技術」を綴った本(もともとはnote)です。目次は、以下。

 

 その1 躁鬱が治らないのは体質だから
 その2 心が柔らかい躁鬱人のための返事の術 
 その3「居心地悪いなぁ」と感じたらすぐ立ち去る
 その4 資質に合わない努力を避けるための吐露の術
 その5「今から作り話をします」と前置きして話そう
 その6「自分とはなにか?」ではなく「今なにがしたいのか?」と聞いてみる
 その7 鬱の奥義・一の巻/鬱のときに「好奇心がない」と嘆く理由
 その8 鬱の奥義・二の巻/心臓と肺だけがあなたをラクにする
 その9 鬱の奥義・三の巻/自己否定文にはカギカッコをつけろ
 その10 トイレを増やせば、自殺はなくなります
 その11 人の意見で行動を変えないこと
 その12 孤独を保ち、いろんな人と適当に付き合おう
 その13 躁鬱超人への道
 その14 実例:躁鬱人の仕事の歴史(坂口恭平の場合)
 その15 最終講義:それぞれのあなたへ
 

 信頼できる人( ≒ 灯台)を決めておこう、生活を窮屈にせずいろいろなことをしよう、すでに私は名前の与えられていない何かの世界最高であるって思い込もう、疲れてきたらとりあえず横になろう、等々。その1からその15まで、躁鬱人が健やかに生きていくための技術が満載で、もう悩まなくてもよくなるかもしれないって、非躁鬱人であってもワクワクします。ワクワクだけでなく「ドキッ」もあって、それは躁鬱人だけでなく、非躁鬱人が読んでも「これは私のことだ」と思える文章に出会えるところ。坂口さん曰く、

 

それを「言葉」と言います。

 

 私たちが坂口さんの「言葉」に助けられてラクになるのと同じように、坂口さんも先達の「言葉」に助けられてラクになったそうです。それが冒頭の引用に登場するカンダハシさん。躁鬱大学の主要テキストであり、曰く《躁鬱病は病気というよりも、一種の体質です》で始まる『神田橋語録』(http://hatakoshi-mhc.jp/kandabasi_goroku.pdf)の著者、精神科医の神田橋條治さん(1937-)です。坂口さんがプラトンで、カンダハシさんがソクラテスというのはそういうわけです。ソクラテスの「言葉」にプラトンが反応し、プラトンの「言葉」にギリシャ市民である私たちが反応するという「言葉」のバトン。

 

 2、3人の会合、いやはっきり言えば、一対一で会うことがいちばんラクです。

 

「その3」に出てくる坂口さんの「言葉」です。はっきり言えば、これは飲み会嫌いの私のこと。直前には《躁鬱人にとって大人数での会合はまったく必要ない》と書かれていて、もしかしたら私も躁鬱人なのかもしれない、なんて思ってしまいます。ただし《自分オンステージなら大人数でも問題ありません》とも書かれていて、やはり違うかな、と。躁鬱人だったとしても混血かな、と。

 

 

 ツイートしたらすぐに坂口さんがリツイートしてくれました。きっと「躁」の側にいるのでしょう。ちなみに学校の公用語たる「ちゃんときちんと語」の話は「その8」に出てきます。ちゃんとしなさい。きちんとしなさい。思うに、これを教室で言い続けると子どもの不登校が増え、職員室で言い続けると教員の精神疾患が増えるのではないでしょうか。坂口さんが書いているように《「苦手なことでも克服しできるようにならないといけない」という「ちゃんときちんと語」が生み出した考え方は、鬱状態をこじらせること》にしかならないからです。だから鬱を遠ざけるべく、

 

「苦手なことはいっさいやらない」

 

 換言すると、躁鬱人に苦手なことを無理強いしない。「ちゃんときちんと」って無理強いしない。坂口さんは「その11」に《はっきり言うと、躁鬱人には教育が必要ありません》とまで書いています。さすがに非躁鬱人には教育が必要だとは思いますが、躁鬱人の血が混ざっているかもしれないという意味での混血の可能性を捨てきれないので、非躁鬱人に対しても無理強いにつながる「ちゃんときちんと語」はほどほどにしたほうがいい。グー・ペタ・ピン(!)とか、前へ倣え(!)とか、学校は子どもたちに「ちゃんときちんと」を強いる場面にあふれていますから。そういったことはほどほどにした上で、

 

 教室と職員室に「のびのび語」を増やす。
 のびのび語だけでなく、トイレも増やす。

 

 そうすれば、みんなラクになって、躁だろうと鬱だろうと躁と鬱のあいだだろうと、健やかに生きていくことができるかもしれません。躁鬱大学で学んでいると、そう思えてきます。不登校や精神疾患も、自殺者だって減るかもしれない。ちなみにトイレというのは「いのっちの電話」のことです。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 いのっちの電話( ≒ トイレ)のことは「その10」に書かれています。鬱、すなわち悩みのことはどう考えればいいのかという、この本の白眉ともいえる内容で、note掲載時には、特別に「非躁鬱人」も聴講することができたとのこと。躁鬱人はもちろんのこと、非躁鬱人も悩みを抱えているのが普通だからです。

 

 普通、すなわち生理現象。

 

 悩みっていうのは要するに、ウンコやおしっこと同じ生理現象にすぎない。しかも、どんな人間も悩みは同じで、人類みな《人からどう見られているかだけ》を悩んでいる。坂口さんの発見です。鬱になったときに《人が悩むってこと》を研究し、さらには2万人以上の「死にたい人」と直接電話でやりとりをしてきた坂口さんならではの発見といえます。

 

 つまり、僕のやっているいのっちの電話とは、このトイレなんです。トイレっていうのはいつでも使えないとやばいです。ですが、今、24時間いつでも使える「人からどう見られているか気にしていることを吐き出すトイレ」は、世界中を探しても、僕の電話しかありません。

 

 西欧だと教会が「トイレ」の役割を果たしているイメージがありますが、住んだことがないので実際のところはわかりません。教会に相当する日本のお寺や神社には、う~ん、期待薄です。

 

 がんばれ、学校。

 

 ちなみに坂口さんは躁鬱人にとって学校はよいところであると書いています。時間割があって日課が決まっていることや、部活があったり異性との出会いがあったり、内容としては窮屈極まりないものの、多彩であり、曰く《安定した土壌》とのこと。その安定した土壌をキープするために、私はせっかくのゴールデンウィークなのに、運動会のダンスの振り付けを考えないと、とか、修学旅行のしおりをつくらないと、とか、考え始めてしまって困っているんだなって、そう解釈すると少し救われます。救われるといえば、坂口さんのちょっとした自伝として読める「その14」もそうでしょうか。道徳の教科書に載ってもおかしくない「生き方」で、たとえ躁鬱の体質でも「大丈夫、きっとうまくいくよ」って思えます。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 そういえば、今年中に教員免許更新講習をどこかの大学で受けなければいけないなって、さっき思い出しました。坂口さんの「躁鬱大学」か「お金の学校」で受講することができれば、日本各地からたくさんの教員が集まって、日本の教育が、日本の未来が変わるかもしれないのになぁ。

 

 お金と躁鬱の次は何でしょうか。

 

 開校が待ち遠しい。

 

 

お金の学校

お金の学校

  • 作者:坂口恭平
  • 発売日: 2021/02/22
  • メディア: 単行本