幼少期に二つの記憶がある。どちらも僕はベビーカーに乗っている。どちらも楽しい思い出ではない。~中略~。二つの記憶には共通点がある。自分の目から見た視点、その坂口恭平を遠くから眺めているもう一つの視点が共存していることだ。
(坂口恭平『幻年時代』幻冬舎文庫、2016)
おはようございます。上記の文章を読んだときに、宮沢賢治の『春と修羅』に出てくる「青森挽歌」の冒頭の一節を思い出しました。青森挽歌は、賢治の妹、宮沢トシの死を悼んで作られたうたとして知られています。
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
「こんなやみよののはらのなかをゆくときは」は客車の中からの視点、そして「客車のまどはみんな水族館の窓になる」は闇夜サイドから視点で描かれています。
客車の中にいると同時に、外にもいるという、不思議な構図。
宮沢賢治の作品によく見られる、視点の移動、ゆらぎ、或いは共存というパターンです。「態」でいえば、見る視点(能動態)と見られる視点(受動態)。或いは、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる、中動態の世界。この宮沢賢治にも特有の世界観が、坂口恭平さんの『幻年時代』でも、多重空間を生きるというかたちで描かれています。
都会教師あるあるですが、戸建ての多いエリアと公営住宅の多いエリア、或いは社宅の多いエリアが同じ学区に共存していると、クラスの子どもたちのカラーや卒業生のカラーが、それぞれ重なり合いつつもやはりエリア毎に違うなぁと思うことがよくあります。『幻年時代』でいえば、電電公社の住宅に住む「僕」とタカちゃんであり、煉瓦づくりのクラブハウスに住む海坊主であり、古くからの集落に住む吉村&田村です。さらに、同じ電電公社の社宅であっても、日の当たる4階に住む「僕」と日の当たらない1階に住むタカちゃんは空間として、そしてキャラとして区別されています。
経験上、大人はそうやって地図でも眺めるように俯瞰することができますが、経験の少ない子どもたちは違います。子どもたちは、そのカラーの違いが空間(土地、エリア)に紐づいていることをどのように&どれくらい感受しているのでしょうか。
坂口恭平さんの『幻年時代』では、主人公である4歳の「僕」が、この空間の多重性をクリアカットに、そしてみずみずしく感受しています。橋の上から見る風景と橋の下から見る風景の違いに驚き、空間は別の角度、別の高さから見るだけでガラッと変貌することに気づいたり、踏切を境界線として《踏切の先に幼稚園が見えてきた》と、国境を越える若きバックパッカーのように興奮したりします。空間としての世界の違いを、感覚としてリアルに受け取る才能。リアルに受け取っているからこそ、「僕」は複数の視点を共存させながら多重空間を生きることになります。
僕は三叉路を前にして、土地というものが人間を形成することに気づき始めている。
三叉路から見える「セキスイハイム」「古くからの集落」、そして「坂口家の住んでいた電電公社」を、それぞれ別の空間としてとらえる「僕」。さらにその別々にとらえた空間の中に、母親や父親、親友のタカちゃんやお金持ちの海坊主などを加えて、「空間+人」をベースにした新たな空間を創造していく「僕」。そうすることによって「僕」は日常を漂泊し、現在いる空間から別の空間へと、現実を脱出しながら冒険を続けていくことができるようになります。
日常を漂白し、日常の中で旅先と同じ非日常を味わう。
幻年時代が、現在の坂口さんのルーツたる所以です。坂口さんの『現実脱出論』にある《僕は今も現実を海外旅行と同じ視線で旅せざるを得ない。~中略~。現実の中で差別されている人だろうが何だろうが、旅行者である僕にとっては、みんな興味深く映って見えるからだ》という下りなんて、まさにそうです。
空間がひとつしかないと、人は、そのひとつの閉じた空間で生じた「思い込み」にとらわれることになります。そして生きづらくなっていく。だから坂口さんのように身のまわりにさまざまな空間(現実)を見つけて、移動したり行ったり来たりしながら「思い込み」を相対化することができたら、まとまることなく生きていくことができるのかもしれない。そう思います。坂口さんの新刊のタイトルが『まとまらない人』であることも頷けます。
子どもは、違う空間を見つけたときに、大人とは違ってヒョイッとその別の空間に飛び込むことができます。そのことは《しかし母ちゃんは、僕がタカちゃんの家に遊びに行くこと少し嫌がっているように見えた。山本家と私たち坂口家は違う種族なのだと母ちゃんは感じているようだった》や《家族という安定した空間はそこにいるだけで十分な満足感を与えてくれるが、むしろ僕は海坊主との出会いの瞬間に惹かれていた。家族には内緒にしなくてはならない、もう一つの世界がそこにあった》などの文章にも表れています。
子どもの自由を奪うのは、いつだって大人です。
まぁ、大人(親、担任)としては、危険だったり面倒が起こったらイヤだなぁと思ったりするからなのですが、危険ゼロの自由(空間)に子どもが惹かれることはなかなかありません。そうやって子どもはまとまった大人になっていきます。「不審者情報」や「子ども一人では行ってはいけません」があふれるご時世にあって、まとまらない大人になるのは至難の業。対抗策としては本を読むことくらい。だからこそ大人になったときに、わたしたちは旅に出たり人に会ったりしてまとまりを崩したり思い込みを相対化しようとしたりするのかもしれません。
今夜も人に会うぞぉ。
名著『家族の哲学』が生まれるきっかけとなった作品であり、幻のような幼年時代と幻ではないその後の時代が共存していることがよくわかる、坂口恭平さんの自伝的小説『幻年時代』。年末年始に、ぜひ🎵