田舎教師ときどき都会教師

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東洋館出版社 編『ポスト・コロナショックの学校で教師が考えておきたいこと』より。学校現場に革新と余白を。

 多くの先行研究がこれまで示唆してきた結論は「オンライン学習は、対面授業と比べて学習効果が高いか、ないしは同等」というのが定説だと思う。わたしがオンライン授業を一か月にわたり行ってきた経験からも、おそらく「オンライン授業の学習効果は対面授業よりも高い」という結論が出ると思う。~中略~。
 しかし学習効果としては「高い、ないしは同値」ということは言えても、それは学生たちが経験する「学習経験」とは同値ではない。
(東洋館出版社 編『ポスト・コロナショックの学校で教師が考えておきたいこと』東洋館出版社、2020)

 

 おはようございます。コロナショックのどさくさに紛れて算数の授業で単元内自由進度学習を採用というか復活させて学習のペースを子どもたちに委ねたところ、普段はあまりノートをとりたがらない子(♂️)が黙々とページを埋めていて、そしてそれを見ていた近くの子(♀️)が振り返りにそのことを書いていて、もちろん称賛の意味で書いていて、やはり哲学者の苫野一徳さんが以前から言っているところの《みんなを一斉に学校に集め、同じことを、同じペースで、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する》というシステムに寄りかかるのはダメだよなぁと思ったここ数日でした。

 

 特に算数。

 

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 前任校やその前の学校で取り組み、その先がけである愛知県の緒川小学校にも足を運んで「これはいい」とその効果を実感していた単元内自由進度学習ですが、学校によってはNGのところもあって、現任校に赴任してからはずっと封印していました。そんな中でのコロナショックです。オンライン授業に負けず劣らず「家庭学習と習得主義」に親和的な自由進度学習を使わない手はありません。苫野さんいうところの《ゆるやかな協同性》に支えられた、コロナ禍を奇貨とした《個の学び》の解禁です。

 

 

 その苫野一徳さんや、冒頭に引用した文章を書いている立教大学教授の中原淳さんなど、この人もあの人もと次々と読みたくなるような「教育の最前線を支える関係者25人」による提言をまとめた、東洋館出版社 編『ポスト・コロナショックの学校で教師が考えておきたいこと』を読みました。自由進度学習のことも書かれており(by 上智大学教授  奈須正裕さん)、ポスト・コロナショックの学校で働く先生たちに必須の一冊だと思います。

 

 オンライン授業の学習効果は対面授業よりも高い。

 

 知りませんでした。先行研究もたくさんあるのですね。そうであるならば、本当なのでしょう。中原さんは大学で実際にオンライン授業を実践してみて、オンライン授業の普及はコロナの感染拡大が終わった後の学びを「革新」することに寄与するのではないかと書いています。ただの変化ではありません。

 

 革新ですよ、革新。

 

 午前はオフラインで冒頭の引用でいうところの《学習経験》を得つつ「ゆるやかな協同性」をつくり、午後はオンラインで自由進度学習にも似た「個の学び」を充実させる。午前の「学びの場」は学校、給食を挟んで午後の「学びの場」は家庭を含む地域。わたしのイメージする「革新」はそういったものです。

 

 午前は学校(午前5時間授業)。
 午後は家庭を含む地域(市民センターなど)。

 

 オンラインを適切に活用し、履修主義ではなく習得主義にすれば、そしてコロナ禍において縮小した行事や集会などを復活させなければ、標準時数を減らすことができます。文部科学省が教科書と同じような感覚で動画をつくって配信し、いわゆる「反転授業」や「ブレンディッド・ラーニング」のようなかたちを促せば、おそらくは現在の3分の2くらいの時数で子どもたちは習得までたどり着けるのではないでしょうか。たどり着けない子や家庭環境に恵まれない子は、午後も学校で預かり、教師が支援すればいい。平等な扱いではなく、違う扱いをすることで、教育格差の是正も期待できます。午後は図書館に行くのもよし、友達と遊ぶのもよし、虫を捕まえに行くのもよし。わからないことがあれば、オンラインで学校にいる先生に質問するもよし。なにもしないをするもよし。学校にいる時間が少なくなれば、いじめや自殺も減ります。そのことはこの3月から5月までのリアルが証明しています。働き過ぎで精神を病んでしまう教師だって減るでしょう。子どもを地域に還すことで、共同体の空洞化にも歯止めがかかるかもしれません。

 

 素晴らしきかな革新。

 

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 空白ではなく、余白を。

 

 執筆者の一人、東京都立矢口特別支援学校教諭の川上康則さんは《不謹慎な言い方かもしれませんが、もしかしたら、コロナウイルスは、ギチギチに詰め込まれていた学校に風穴を開け、ある意味では歴史上初めて学校に「余白」をもたらそうとするものだったのかもしれません》と書いています。空白ではなく、余白。学校の空白はすぐに仕事で埋め尽くされてしまいますが、余白は活力の源になります。余白があれば、例えば同執筆者の初川久美子さん(東京都公立学校スクールカウンセラー)が危惧しているコロナ禍における「いじめ」も、防ぎやすくなるのではないでしょうか。余白なき教室にいじめあり。

 

 あっという間になくなった余白。

 

 分散登校のときにあった「余白」は、通常登校がはじまった途端に「空白」に変わり、すぐに仕事に埋め尽くされてしまいました。ポスト・コロナショックは、これからが本番です。

 

 要・革新。

 

 行ってきます。