もちろん、人間だってそうです。ひとりひとりみんな違う。
それなのに、それこそリンゴ箱のようにひとつの教室に同じ年齢の子供を集めて、みんな同じという前提で教育をしています。それがそもそもの間違いだと思います。
1本のリンゴの木になるリンゴの実だって、ひとつとして同じものなんかないのです。まして、ひとりひとりの子供は、みんな違っているのが当たり前なのです。
(木村秋則、石川拓治『土の学校』幻冬舎文庫、2015)
みんな違うという前提で教育をすると、ひとつの教室に違う年齢の子どもたちが集まってもOKとなります。また、授業・学習形態は必然的に「一斉」ではなく「自学、或いは個々(孤立ではない)」となります。複式学級の多いフィンランドや、マルチエイジの学級編成をとっている、オランダのイエナプランなどがその例としてよく紹介されます。傾聴すべきポイントは、どちらの国でも、異学年学級を構成することによって、みんな同じという前提の「安易」な一斉授業を排しているということ。ちなみにフィンランドはOECDの国際学力調査(PISA)で世界一をとった国であり、オランダは「自分は幸せです」と答える子どもの割合が世界一の国です。
みんな同じという前提で教育をしていること。
それがそもそもの間違いだと思っている人は、奇跡のリンゴで有名な農家の木村秋則さんだけでなく、前回のお便りでも紹介したもと教員の岩瀬直樹さんなど、日本全国津々浦々、他にもたくさんいます。かつて同僚とともに足を運んだ、愛知県の東浦町立緒川小学校では、「読み、書き、計算」については無学年制の学習形態を、教科学習については「複数教科同時進行の単元内自由進度による自学」と名づけられた学習形態を、パーシャルとはいえ、学校の方針として取り入れていました。公立なのに、すごいなぁ~。
緒川小学校のオープン教育の実践をまとめた『学校はパラダイス』(小笠原和彦 著)には、そこで働く教員の言葉として《子どもたちを見ていると、書架の天辺にある天板をテーブル代わりに使っている子もいれば、壁に向かって学習している子もいる。それを見ていると、やっぱり、机や腰掛けの配置っていうのは、大人が考えるような整然としたしつらえではなくて、いろいろな子供を想定してもいいんじゃないかと思うんですよね》という考えが紹介されています。
みんな違うという前提の教育にチャレンジすること。
先日、岩瀬直樹さんと苫野一徳さんが主催する「教師の学校」というプライベートの学習会の場で、岩瀬さんが「大人がリスクを負わない代わりに、子どもたちにリスクを負わせることになる」と話していました。「みんな同じ」という前提の教育を「無自覚」に続けることに対してです。同じ年齢の子どもたちを集めた集団であっても、「みんな違う」を前提とした教育の在り方を考え、少しずつでも導入していかないと、子どもたちの未来に顔向けができませんよっていう話。考えさせられます。
以上、3年前の学級通信『コラボ』に、写真を添えて。ちなみに冒頭の引用は、次の文章で結ばれます。
子供はひとりひとりみんな違う。その違いを尊重し、違うことを前提とした教育を、これからはもっと考えていかなきゃいけないと私は思います。
それは子供たちだけのためではありません。私の経験では、それが上手くいくとリンゴ畑全体が上手くいくようになるのです。
あれから3年経って、その「教師の学校」に参加していた宮城県の先生が「大日向小学校 しなのイエナプランスクール」のクラスリーダーになっていたり、岩瀬さんや苫野さんが新しい学校をつくり始めていたり……。変化のど真ん中にいる人たちって、すごいなぁと素直に思います。
大人も子どもも、ひとりひとりみんな違う。
今日は帰宅後、台風15号の影響で斜めになってしまった我が家の庭木に「八つ掛け支柱」という方法で「支え」をつくりました。パパ、がんばりました。パートナーにほめられて、それだけでもう、満足。パートナーも長女も次女も一目置いているご近所の見目麗しいママさんにもほめられて、さらに満足。私のような「普通」の教員が、過労死レベルの労働なんてものを強制されない「普通」の社会で、子育てを楽しみつつ「普通」に働くことができるよう、岩瀬さんをはじめとする先駆者たちに、全国(リンゴ畑全体)に波及するよい変化を期待したいところです。
見たいと思う世界の変化にあなた自身がなりなさい。
ガンジーの言葉を体現している先駆者たちに、感謝。