パックツアーにせよ「学級」にせよ、制御工学的にいえば、フィードフォワード・コントロール(事前制御)の世界である。フィードバック・コントロールが、対象の変化に応じて制御を変えていくのに対し、フィードフォワード・コントロールとは、先まわりして事前にすべての外乱要因を統制し、あとは単純な作業を繰り返すことによって、目的を達成できる仕組みである。
遊びの世界で形成されるパックツアーのグループと、学習活動のために形成された「学級」という集団とは、この事前制御という点でまったく同じ仕組みからなる集団なのである。
(柳治男『〈学級〉の歴史学 自明視された空間を疑う』講談社撰書メチエ、2005)
大型の台風の接近に伴い、避難準備情報を載せた緊急速報メール(エリアメール)が配信され、スマホが何度も警告音を鳴らします。にもかかわらず、外から聞こえてくるのは「ドンドン」という花火の音。雨(の気配)にも負けず、風(の気配)にも負けず、近くの神社で打ち上げられている、豪勢な花火。シュールな町だなぁ、ここ。
こんばんは。上記のような感想をもった昨夜でしたが、雨と風のものすごい音に耐え、今朝、カーテンを開けてみると、もうすっかり雨も風も止んでいました。心も病んだような気がするのは、臨時休校を期待していたからでしょうか。さようなら、台風15号。戻ってこい、夏休み。
コントロールできないものに期待すると、病みます。
柳治男さんの『〈学級〉の歴史学』を読みました。『ワークショップ』で有名な中野民夫先生の弟子筋にあたる、三田地真実先生(著書に『ファシリテーター行動指南書』など)に勧められて購入した本です。これがまためちゃくちゃおもしろくて、バックパッカーを経由して教師になった身としては、第一章「学級を疑う」の中にある「1.パックツアーと学級は似ているか」という目次からして興味津々。で、冒頭に引用したように、パックツアーのグループと学級は似ているんですが、
バックパッカーって、パックツアーが苦手なんです。
当然ですよね、バックパッカーはひとり旅が基本ですから。集団で画一的に行動するなんて、はっきりいって「イヤ」なんです。だからもとバックパッカーとしては、学級を苦手とする子の気持ちがなんとなくわかります。
しかし、です。
冒頭の引用にあるように、中世の学校にはなかった学級という組織を、フィードフォワード・コントロール(事前制御)の世界に位置づけることによって、近代が「発明」したのであれば、教師は当然、学級をコントロールするようになります。そのようなものとして発明されたのだから当然です。集団行動の「イヤ」さが身に沁みている、もとバックパッカーの私でも、場面場面で、否、かなり多くの場面で、集団として行動することを子どもたちに求め、コントロールしようとしてしまいます。そしてコントロールがうまくいかないと、期待とのズレによって、(以前に比べたら減ってきたものの)イライラします。
ぼくらのもっているコントロール欲求はなかなかやっかいだ。
教育界のプリンスであり、現在、哲学者の苫野一徳さんらとともに新しい学校をつくろうとしている、もと教員の岩瀬直樹さん(一般財団法人「軽井沢風越学園設立準備財団」副理事長)が、以下のブログにそう書いています。
しかし、学級の歴史学を踏まえると、コントロール欲求がやっかいであることは、おそらく当然なんです。つまり、学級という発明品を使いながらコントロール(フィードフォワード・コントロール)欲求を手放すっていうのは「語義矛盾」なんじゃないかと。パックツアーのグループに申し込んだのに行ってみたらツアコンを含め誰もいなかった、みたいな話と同じなんじゃないかと。それパックツアーじゃなくて、ひとり旅(バックパッカー)ですから、みたいな。
ひとり旅をさせたいのであれば、学級を解体したほうがよい。
もちろんプリンスはそんなことは重々承知で、だから学級の在り方を変えることも視野に入れながら、フィードフォワード・コントロールではなく、フィードバック・コントロールを主体とした新しい学校(軽井沢風越学園)をつくろうとしているのだと思います。それこそオランダのイエナプラン教育やフィンランドの小学校のように、「みんな違う」を出発点として。
フィードフォワード・コントロールは、「みんな同じ」が前提。
一方フィードバック・コントロールは、「みんな違う」が前提。
「みんな違う」を前提とする学校っていうのは、例えば、エリアメールを配信して「台風が来るぞ~」って呼びかけている人がいる一方で、花火を打ち上げて「どうだ、きれいだろ」って悦に入っている人もいる。そういったバラバラさを Welcome とする寛容な学校のことです。
みんな違って、みんないい。
学級を解体せよ。