田舎教師ときどき都会教師

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岩瀬直樹 原案『きょうしつのつくり方』より。コントロール欲求を手放した先にはどんな教室の可能性が開かれているのか。

岩瀬…凝集性の違和感みたいなことがぐっと来たときは、大きい変化を自分の中に感じました。「自分自身は割とそういう場は嫌なのに、先生である私はやれてしまう」みたいなところがつながったときに、自分の中に一つ核ができたという感じはあります。学校の先生は立場的にある種の「権力性」があります。そして凝集性の力を学級を「まとめる」力に無自覚に使ってしまいがちです。運動会だったり、大縄だったり。「みんなの力を合わせて絶対優勝するぞ!」みたいな。でも実はその中で苦しんでいる子、自身の自由が侵害されていると感じている子がいるんですよね。恥ずかしながらボクはなかなかそういう子たちに気づけなかったんです。そういう子たちの声なき声に気づいたときに、ぼくの中では大きな変化が起きました。一人ひとりが自分のままで生きやすくて、必要に応じてつながるようなゆるやかさ、が自分の核として育ってきた感じです。
(岩瀬直樹『きょうしつのつくり方』旬報社、2015)

 

 こんばんは。昨日、校庭で6年生の体育の授業を参観していたら、隣にいた若手の先生がスマホの Zoom 画面に自身の教室を映し出していて「なるほど、その手があったか」と思いました。教室にタブレットを置いてスマホとリンクさせれば、いつでもどこでも子どもたちを見守ることができるというわけです。

 

 賢い!

 

 そう思うと同時に、パノプティコンみたいだなとも思いました。パノプティコンというのはもちろん、ジェレミ・ベンサムが設計した全展望監視システムのことです。転じて、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生  監視と処罰』の中で、コントロールされた社会システムの比喩として使ったことでも知られています。

 

 かんごくのつくり方。

 

 見守るといえば聞こえはよいけれど、それを「監視する」と言い換えると、権力性の違和感みたいなことがぐっと来ます。監獄のようにコントロールされた教室をつくるのか、それともそうでない教室をつくるのか。もと教員の岩瀬直樹さんは、ブログ「いわせんの仕事部屋」に《ぼくらの持っているコントロール欲求はなかなかやっかいだ》と書いています。

 監獄と教室の分かれ道は、このコントロール欲求をうまく手放すことができるかどうかにかかっている。だってみんなの社会は、すなわち《みんなの教室はみんなでつくる》ものだから。

 

 きょうしつのつくり方。

 

きょうしつのつくり方

きょうしつのつくり方

 

 

 岩瀬直樹さんの『きょうしつのつくり方』を再読しました。岩瀬さんのバーチャル教室で起きた《4月のスタートから3月の旅立ちまでの1年間の物語》を追体験できる一冊です。

 岩瀬さんによる「はじめに」に続く前半パートは、荻本由紀子さんによる文字のない「絵」。後半パートは前半の絵に岩瀬さんの言葉をトッピングした文字のある「絵」。巻末には岩瀬さんと苫野一徳さんと寺中祥吾さんの鼎談が収められています。

 

 何といっても、対話を求めてくる「絵」が素晴らしい。

 

 荻本由紀子さんの「絵」は、開発教育でいうところの「フォトランゲージ」に使われる教材のようで、描かれている教室や子どもたちの姿を見ているだけでそこに参加し、何かを話したくなります。岩瀬さんが「はじめに」に《繰り返しになりますが、1ページ、1ページ、じっくり参観して、一人ひとりが何を考え、何を感じ、どのように影響しあいながら、「みんなのきょうしつ」をつくっていっているかを想像してみてくださいね。できれば友人や家族、同僚と対話しながら読んでみてください。絵本を使った対話のワークショップのイメージで》と書いているのも頷けます。

 

 授業中(算数)の風景

 

 そう題された絵が2つあります。ひとつは《自由に学び合える楽しさで華やいでいます。その中、戸惑う〇ちゃんのプロセスが見えるページです。》という1学期の授業風景を描いたもの。そしてもうひとつは《学びの時間が「自分の時間」になり、しっとり学びに集中できるようになってきました。》という3学期の授業風景を描いたものです。

 1学期の授業風景も3学期のそれも、担任によるコントロールを前提とした「一斉授業」ではなく、いわゆる自由進度学習と呼ばれる「一人ひとりが自分のペースで、自分の方法で、自由に学び合う」絵です。学びのコントローラーは子どもたちの手に委ねられていて、座席配置も講義型のそれではありません。みんな思い思いの場所で学んでいることから、一見すると「自習」です。でも、それがいい。教室はリビングルームという、オランダのイエナプラン教育のようになっている。

 では、華やいで見える1学期と、しっとり感の漂う3学期の最大の違いはといえば、それは1学期には戸惑っていた〇ちゃんが、3学期には学習に没頭しているところ。その背景には子どもたちのゆるやかなつながりがあります。戸惑っている仲間に気づく力、戸惑ったときに「HELP!」を出せる力、どちらの力もついた結果としての3学期です。

 

 こんな教室になったらいいなって、そう思うのだけど、どう?

 

 この2つの絵を拡大コピーして子どもたちに見せ、教室に掲示していたことがあります。今でもよく覚えているのは、その絵を使って授業をした直後に「HELP!」とノートに書いて掲げた子がいたこと。ユニークな子だったのでちょっとうけました。1学期の絵に「HELP!」というボードを掲げている子が描かれているんですよね。それから「2学期のいちばんの思い出は、窓側のロッカーの上に教科書とノートを持っていって、〇さんと一緒に勉強したことです。テラス席にでも座っているかのようでした。」という感想を書いた子がいたこと。この『きょうしつのつくり方』を読んで、わたしの教室の風景も変わっていったというわけです。

 

 そういう子たちの声なき声に気づいたときに、ぼくの中では大きな変化が起きました。

 

 冒頭の引用は巻末に収められている鼎談からとったものですが、この発言には、岩瀬さんが現場の教員から圧倒的な支持を得ている理由が、それこそ「凝集」しているように思います。歴史的に、そして構造的に生み出されるコントロール欲求を自覚し、うまく手放さない限り、《一人ひとりが自分のままで生きやすくて、必要に応じてつながるようなゆるやかさ》をもった教室は、そして社会は、つくれないからです。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 コントロール欲求を手放した先にはどんな教室の可能性が開かれているのか。岩瀬さんの『きょうしつのつくり方』を開くと、そういったイメージが豊かになります。イメージ(ビジョン)が共有できれば、手法は自由に。

 

 まずはイメージの共有を。

 

 ぜひ。

 

 

監獄の誕生<新装版> : 監視と処罰

監獄の誕生<新装版> : 監視と処罰