田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、旅行、映画」

妹尾昌俊 著『教師と学校の失敗学 なぜ変化に対応できないのか』より。おっしゃる通りです。しかし~。

 休校中は、小中高のほとんどの先生にとって、新型コロナのことで精神的にはキツかったでしょうが、授業も部活動も生徒指導もないなか、残業時間は格段に減りました。「こんなに家族と夕食を食べたことはない」と言う先生もいました。しかし、学校再開後はまた忙しい日々に戻ってしまい、せっかくワーク・ライフ・バランスがよかった状態から "リバウンド" してしまった人も多いようです。
(妹尾昌俊『教師と学校の失敗学 なぜ変化に対応できないのか』PHP新書、2021)

 

 こんばんは。失敗学といえば、畑村洋太郎さんの名前が頭に浮かびます。この「失敗学といえば、畑村洋太郎さん」という話を「そうだね」ってわかってくれる同僚が職員室にいないことが、妹尾さんの新刊のサブタイトルにある「なぜ変化に対応できないのか」の答えのひとつだと思うのですが、どうでしょうか。

 

 教育者なのに、本すら読めない。

 

 そういう意味です。残業と持ち帰り仕事にまみれ、いわば《息継ぎせずに泳ぎ続けているような日々》の中で、本すら読めないくらいに「教師崩壊」していたから、教師と学校はコロナ禍における変化に対応できなかった。する気にもなれなかった。全国一斉の臨時休校が要請されたあの日、鶴ならぬ首相の一声でパッと息継ぎをすることができて、私はといえば「十数年ぶり」に息継ぎをすることができて、

 

 ゼーハーゼーハー。

 

 そんな状態で未曾有の危機に対応しろだなんて、無理です。冒頭の引用に《こんなに家族と夕食を食べたことはない》とありますが、わかりみが深すぎて泣けます。ごめんね、長女&次女。パパは文字通り心を亡くしていたよ。生存者に告ぐ、ティーチャーズ・クライシスを回避せよ。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 妹尾昌俊さんの新刊『教師と学校の失敗学 なぜ変化に対応できないのか』を読みました。休校中も休校後も主体的に動けなかった「教師と学校」がほとんどだったこと、しかもフリーズしてしまったという「失敗」を振り返ることなく「なかったこと」にしようとしている「教師と学校」が多いこと、そういったことに警鐘を鳴らしている一冊です。レイチェル・カーソン風にいえば、

 

 沈黙の学校。

 

 

 春になったのに鳥たちの声が聞こえない。もしかしたら健康に害を及ぼす化学物質のせいかもしれない。そう推測してレイチェル・カーソンは『沈黙の春』を書きました。同様に、コロナ禍になったのに教師たちの声が聞こえない。もしかしたら健康に害を及ぼす……。

 

 いや、なぜだ?

 

 そう考えて妹尾昌俊さんは『教師と学校の失敗学』を書きました。たぶん。章立ては、以下。

 

 第1章 フリーズした学校
 第2章 子どもたち本位で考えられない学校
 第3章 コロナ禍で見えてきた「教育の大問題」
 第4章 なぜ、日本の学校は変われないのか
 第5章 学校・家庭・社会をつなぐ「学習する学校」へ

 

 結論というか読後の感想からいうと、最初から最後まで「おっしゃる通りです」ばかりだった前著『教師崩壊』に比べて、所々で「おっしゃる通りです。しかし~」と感じました。きっと《リバウンド》で疲れているのだと思います。

 

 例えば、第1章。


 第1章には「プリント爆弾」の話が出てきます。宿題という名の「家庭丸投げ」プリントのことです。Zoomを使って早い段階で子どもたちとのつながりを取り戻した学校もあったのに、なぜこんなにも多くの学校が、思考も行動もフリーズさせたまま爆弾を投下し続けたのか。言い換えると、

 

 なぜ学校ごとの差はここまで広がったのか?

 

 私は投下しませんでしたが、おっしゃる通りです。我が家にも多くの爆弾が落とされました。しかし、爆発はしなかった。家族と過ごす時間があったから、というのが理由です。冒頭の引用に登場する先生と同様に、休校中、私も《こんなに家族と夕食を食べたことはなかった》と思いました。家族と過ごす時間を十分にもてたからこそ、爆弾に対応する余裕があったというわけです。さらに、ご近所のお子さんの爆弾もまとめて処理するくらいの余裕がありました。これぞまさに、

 

 ワーク・ライフ・バランス。

 

 ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」は「ホームベースづくり」を意味します。決して趣味のための時間ではありません。ホームベースとは家庭や地域、ひっくるめて共同体のこと。そもそも論として、社会がライフに、すなわち家庭や地域にもっと価値を置いて共同体の空洞化を防いでいれば、平時を前提としている学校がバタバタする必要なんてなかった。たかが3ヶ月(3月~5月)。

 

 爆弾もオンラインも必要なかった。

 

 では、なぜ共同体が空洞化しているのかといえば、それは学校が普段からがんばりすぎているからでしょう。担任ががんばればがんばるほど子どもたちが何もしなくなるように、学校ががんばればがんばるほど家庭や地域は何もしなくなります。だから私の勤務校では「何もしないをする」という選択をしました。単にフリーズしていただけかもしれませんが、いずれにせよその結果、しびれを切らした保護者が有志で Zoom を立ち上げ、子どもたち同士をつなげるという「三方よし」の展開に。

 

 コロナ禍を転じて福となす。

 

 つまり、未曾有の危機だったからこそ、教師は家庭と地域を信頼し、「子どもたちをよろしく」って伝えた上で、自身の住まいであるホームベースのケアに専念すべきだったように思います。ちなみに休校明けはまた「教師崩壊」レベルで忙しくなったのでオンラインの整備どころではなく、ただただこなす毎日です。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 第2章には、夏休みを短縮したり土曜授業を増やしたり、学びの保障と称して教科書を進めまくったり、つまり子ども本位ではなく、学校本意で休校明けのスケジュールが組み立てられたことに対する疑義が呈されています。

 

 おっしゃる通りです。

 

 私もそう思います。しかし末端の教員には為す術がなかった。子ども本位ではないことはもちろんのこと、教師本位でもなかった。夏休みの短縮や土曜授業を望んでいた教師なんて周りにはいなかった。じゃあ、何本位かと問われれば、管理職及び教育委員会本位でしょうか。管理職や教委を相手に研修を行っているという、妹尾さんの力が待たれるところです。

 

 例えば、第3章~第5章。

 

 コロナ禍で露わになった「フリーズした学校」及び「子ども本位で考えられない学校」から見えてきた「教育の大問題」として、妹尾さんは第3章で以下の4つを挙げます。

 

 大問題①  子どもたちの主体性が育っていない
 大問題②  学校、行政はステイホームのつらい子に冷淡
 大問題③  保護者と学校の亀裂が拡大している
 大問題④  疲弊する現場(教師崩壊)

 

 おっしゃる通りです。しかし大問題①~③は大問題④の結果であり原因でもあって、やはり「教師崩壊」が巨大な問題だなって、そう思います。教師崩壊を含め、なぜこれらの大問題を解決することができないのか。パラフレーズすると、なぜ日本の学校は変われないのか。その理由の深層にあるのが、第4章に書かれている、これ。

 

 深層①  責任分担の曖昧さ
 深層②  教師像との葛藤
 深層③  過去の成功モデルへの依存
 深層④  組織学習の脆弱さ

 

 要するに日本社会と同じです。①③④なんて特に。深層②の「教師像との葛藤」というのは《従来の教師の専門性や役割を揺さぶり、心理的に不安にさせるテクノロジーを教師は忌避してきた》という話で、おっしゃる通り。しかしそれも余裕のなさゆえ、すなわち「教師崩壊」ゆえ。そんな風に書き続けていると「言い訳」じみてきますが、でも単なる「忙しさ」ではないんです。

 

「崩壊」レベルなんです。

  

 とはいえ、教師たる者、よりよい未来をイメージする妹尾さんのように、前向きにならなければいけません。最終章となる第5章には、学校・家庭・社会をつなぐ「学習する学校」になるための「柱」と「施策」が紹介されています。現実から理想へという図式でいえば、こなす学校から学習する学校へ。

 

 

 柱①  学校を関係者が学び合うコミュニティにする
 柱②  学校・家庭・社会をつなぎ、カリキュラムの企画・実施から多様な人々の参画を得る
 柱③  あれもこれも教師に担わせる、欲張りな学校を見直す

 

 施策①  挑戦を奨励・評価し、失敗を許容する組織風土をつくる
 施策②  組織学習に伴走し、ときには異論をはさめる外部人材を学校運営に入れる
 施策③  児童生徒の意見表明と学校運営への参画を進める
 施策④  保護者や地域住民等がいつでも来ることができる、オープンな学校にする
 施策⑤  企業、行政等の協力を得て、学校支援を副業や有給休暇中の活動として行いやすくする
 施策⑥  学校の役割と教師の業務について仕分けをして、精選する
 施策⑦  教師以外のスタッフを増やし、学校内での分業と協業を進めやすくする

 

 おっしゃる通りです。

 

 しかし~。

 

 

教師崩壊 先生の数が足りない、質も危ない (PHP新書)
 
沈黙の春 (新潮文庫)

沈黙の春 (新潮文庫)