田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

ヤマザキマリ 著『たちどまって考える』より。ジョーからルフィーへ、ソロからグループへ。

 まず、かつてのアイドルのように一人でステージに立つ場合、その歌手は「絶対に間違えない」という緊張を一身に纏います。ソロで活動していれば、人の求める期待に応えなければならない、というプレッシャーをすべて一人で背負わなければならないわけです。言わば昭和のアイドルたちは、そうした経験を積んできた人たち。同じような緊張感を強いられる仕事は、ほかに政治家か単独競技のアスリートくらいかと思います。
 ところが今では、大勢のグループで歌い踊るスタイルがアイドルの主流です。誰かが歌詞を間違えても一人で歌っているときほど目立ちませんし、メンバーのほかの誰かがフォローしてくれるかもしれません。
(ヤマザキマリ『たちどまって考える』中公新書ラクレ、2020)

 

 こんばんは。今週はたちどまって考える間もない月~金でした。先週の土曜授業がボディーブローのように効いていた月~金でもありました。絶望的にハードだったということです。子どもたちからも「先生、大丈夫ですか。ちゃんと寝てください」と心配されるレベル。でも、ようやくたどり着きました。夢にまで見た4連休前夜に。

 

 ひとつなぎの大秘宝は実在した。

 

 漫画『ONE PIECE』でいえば、そういったところでしょうか。水曜日に新刊(巻九十七)が発売されましたね。カイドウに息子(?)がいたなんて。それはさておき、明日になったらあっという間に4日後の夜になってしまいそうです。4連休前夜を終わらせたくない。たちどまって、考えたい。そんなわけで、今夜はヤマザキマリさん。

 

 

 おはようございます。昨夜、ヤマザキマリさんの『たちどまって考える』を読みました。イタリアに住んだりシリアに住んだりポルトガルに住んだりアメリカに住んだり。ちり紙交換の仕事をしたり革製品の売買をしたり漫画家になったり温泉のリポーターを務めてみたり。これまでずっと「国境」にも「仕事」にもしばられない生き方をしてきたヤマザキさんが、このコロナ禍をどのようにとらえ、どのように生きているのか。そんなことがわかる一冊です。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 この本では、そのパンデミックを前にした私が、初めてといってもいいくらい長い期間家にとじこもり、旅にも出ずに歩みを止め、たちどまったことで見えてきた景色について記してみたいと思います。

 

「はじめに」と「おわりに」に挟まれた各章のタイトルは以下の通り。

 

 第1章 たちどまった私と見えてきた世界
 第2章 パンデミックとイタリアの事情
 第3章 たちどまって考えたこと
 第4章 パンデミックと日本の事情
 第5章 また歩く、その日のために

 ちなみにヤマザキさんの旦那さんはイタリア人です。ヤマザキさんはコロナのせいでイタリアに戻れなくなってしまったとのこと。そういった事情もあって、第1章と第2章には、オンラインでのイタリア家族とのやりとり等を通して見えてきた、日本とイタリアの違いが書かれています。パンデミックで露わになった大きな違いのひとつは、リーダーの資質。特に、リーダーのもつ言葉の力が違うということ。

 

政治家たちがもつ言葉の力。その背景には、弁論力こそ民主主義の軸と捉える古代ギリシャ・ローマから続く教育が揺るぎなく根付いていると感じさせられます。リーダーが民衆に届く言葉を備えられるかどうかは、自分の頭で考えた言葉として、人々に発言できているかどうか。「言わされている」言葉には、人に届くのに必要なエネルギーが発生しません。

 

 リーダーが違えば、国民にも違いが出てくるのは理の当然です。逆もまた然り。イタリア人には「疑念」へのリスペクトがあり、リーダーは絶えずその疑念を払拭するための言葉を考えなければいけないとのこと。言葉の力は「熟考」によって磨かれます。冒頭の引用につなげると、ソロで活動していれば、人の求める期待に応えなければならない(!)というプレッシャーをすべて一人で背負わなければならない、だから「考える」というわけです。日本のリーダーは、日本人は、どうですかという話。イタリアではないですが、3月18日にドイツのメルケル首相が国民に行った演説は今でも記憶に新しく、なぜ彼女のような首相が日本には生まれないのかと思った人も多いのではないでしょうか。

 

 なぜ松田聖子のようなアイドルが今生まれないのか。

 

 第1章と第2章が伏線となって、表題作の第3章には、なぜ松田聖子のようなアイドルが今生まれないのかという「問い」が提出されています。ヤマザキさん曰く、松田聖子はアイドル界のカエサル。「ブルータス、お前もか」のカエサルです。松田聖子さん、すごい。この「問い」に対する答えが冒頭の引用で、この「ソロからグループへの変遷」は、ヤマザキさんが生業としている漫画の世界でも起きているとのこと。

 

 一匹オオカミよりもグループ。

 

 尾田栄一郎さんの『ONE PIECE』が典型ですね。ルフィーというメインキャラクターは設定されているものの、決して一匹オオカミではありません。新刊でも「友達だからな」なんて言葉が躍動しています。ルフィーは、あしたのジョーではない。タイガーマスクでもない。

 

 人気というものは、人々が何を求めているかを表わした一つの指標と言えますが、今の時代、漫画は「皆でやる」というスタイルの物語でないとウケないのだそうです。昭和の子どもたちが胸を熱くした、一匹オオカミの孤児のヒーローは、今や若者たちが感情移入できないものらしい。

 

 私はスラムダンク世代なので、どちらかというとグループ寄りかもしれません。それはさておき、アイドルだけでなく、漫画や映画のコンテンツの変化から見ても、現代の日本は「ゆるく」なっているというのが、一匹オオカミ寄りのヤマザキさんの見立てです。言葉の力と考える力も、これまで以上に「ゆるく」なっている。

 

 チーム学校。

 

 学校教育もそうですよね。チーム学校とか、隣のクラスに合わせるとか。すべて思考停止の危険性を孕んでいます。だって合わせればいいだけですから。そこに思考は働きません。私は初任校も2校目も単学級だったので、その合わせるという感覚がまるでなく、常に緊張感を強いられて「考えて」いたように思います。その経験が、今でも役に立っている。だから「チーム学校」にも「学年で足並みをそろえる」にも、それこそイタリア人のような「疑念」をもっています。自治体、或いは学校によっては、学年で考えた授業を代表者(主に若手)が「研究授業」として行うなんてことがありますが、あれもどうなのでしょうか。 「言わされている」言葉には、人に届くのに必要なエネルギーが発生しないように、「やらされている」授業には、子どもに届くのに必要なエネルギーが発生しません。研究授業なんて、好きにやらせればいいのに。事後の検討は必要でも、事前の指導案検討なんて百害あって一利なしです。そもそも自然科学分野における「仮説ー検証」型の研究と違って、教育のそれは形だけ真似しているだけで研究じゃないし。

 

 脱線しました。

 

 第4章と第5章には、日本の権威主義的な「ダメさ」が描かれています。猜疑心という想像力をもっと働かせましょうという話。感染者数ばかりが報道されるのっておかしくない(?)とか、自粛期間中に Twitter 上で展開された「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグに対して「わかってもいないくせに、口を出すな」などという反応を示す人がいるのはおかしくない(?)とか、要するに民主主義の土台が揺らいでいませんかという「疑念」です。民主主義とは参加すること。だから、

 

 たちどまって考える。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 今日から4連休。たった4日間しかありませんが、たちどまって考え、次の参加に備えようと思います。読書の秋。中野信子さんとの対談が収められた、もうひとつの新刊『パンデミックの文明論』も、ぜひ。

 

 長女と次女は土曜授業です。

 

 可哀想に。

 

 

パンデミックの文明論 (文春新書)

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ONE PIECE 97 (ジャンプコミックス)

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