田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

エマニュエル・トッド 著『大分断 教育がもたらす新たな階級化社会』より。我々は学業と知性の分断が起きている時代を生きている。

 分断を招くという文脈においての教育とは、もはや高尚な意味での教育ではなく、ただ単純に取得できる「資格」を指します。今考えなければいけないのは、この教育と知性の関係性でしょう。能力主義という理想が高まった時代には、学校教育で成功するためにはある程度の知性がなければいけませんでした。しかしながら、今やその点においては、我々は学業と知性の分断が起きている時代を生きていると言えるかもしれません。
(エマニュエル・トッド『大分断』PHP新書、2020)

 

 こんばんは。先日、高校1年生の長女に「地域みらい留学365」というものを勧めました。内閣府と(一財)地域・教育魅力化プラットフォームが共同で今年度から立ち上げた「高校2年生の1年間の国内単年留学」です。留学先には、北海道斜里高等学校やら島根県立隠岐島前高等学校やら高知県立嶺北高等学校やら、教員としてもバックパッカーとしても心をくすぐられる高等学校がずらり。県立の中高一貫校(いわゆる進学校)に通い、課題に追われ、考えるための自由な時間も、友達と思いっきりふざける時間もあまりないように見える長女に「1年間くらいのんびりしてきたらどうだ」と思ったというわけです。

 

 ちょっと興味あるかも。

 

 パパの提案に珍しく乗り気になった長女。鉄は熱いうちに打てとばかりにすぐに資料を取り寄せてオンラインでの説明会に親子で参加するところまでもっていきましたが、説明会後、長女曰く「やっぱり今の学校でいい」云々。大分断。残念です。長女を訪ねて北海道か島根か高知に遊びに行くというパパの計画もおじゃんになりました。嗚呼。

 

 

 

 エマニュエル・トッドの『大分断  教育がもたらす新たな階級か社会』を読みました。訳者は大野舞さん。ソビエト連邦の崩壊やアラブの春、そしてトランプ大統領の誕生などを予言した歴史人口学者・家族人類学者として知られるトッドは、《僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない》で有名なポール・ニザンの孫としても知られています。

 

 そのトッドが「教育」を語った一冊。

 

 冒頭に引用した《学業と知性の分断が起きている》という話や、時間を無駄に使うことが許されていない高等教育の問題、日本の教育はもう少し緩くてもいいのではないかという謹言など、我が意を得たりの記述がてんこ盛りで、長女にも次女にもクラスの子どもたちにも「ちゃんと遊ばないとマルいアタマがシカクくなってしまう」「スウェーデンの小学校社会科の教科書には、昔は『宿題をきちんとやってくることが、もっともよいこととされていました』って書いてあるけどその理由はわかる?」「宿題や課題に追われる毎日では知性は身に付かない」というようなことを定期的に伝えている身としては、強力な味方を得たような気持ちになりました。例えば以下のくだり。

 

今はとにかく、学生たちも「完璧」であることを求められるようになってしまったのです。そして自らを成熟させるために学ぶのではなく、自分以外の人を押しつぶすために学んでいるかのようになっています。
 いかに自分が従順であり、忍耐強く、そして順応主義者であるかを見せつけるために高等教育を受けるのです。しかし、そうすることで生まれるのは愚か者たちでしかないと言わざるをえません。

 

 フランス人の著者が高校生だった頃には、エリート校たるグランゼコールに入るための準備クラスであっても、学生たちには考える時間があり、ふざける時間もあったとのこと。それから、テレビやテレビゲームが出てくる前の時代は、子どもは読書をするか、そうでなければ退屈していたとのこと。退屈すれば、考えますよね。どうすればこの退屈を紛らわすことができるのかって。退屈は創造の母。著者も《私は、退屈というのは進歩のための大切な要素だと信じています》と書いています。

 

 与える=定着する、ではない。

 

 空白があったら埋めてしまいたい、空白があると子どもたちが退屈して遊びだしてしまうから。そう思ってしまうのが教員です。私もです。だから何かを与えることで子どもたちをコントロールしたくなります。フィードフォワード・コントロールです。教育熱心な親もそうかもしれません。

 初任校の恩師が「『与える=定着する』といった発想に陥らないように」と週案に書いてくれたことがあって、おそらくそのときの私は、クラスの子のテストの点数が悪い → 宿題を大量に出す → できるようになる、みたいな思考回路だったのだと思います。

 

 なんて浅はかな。

 

 この浅はかな図式に、与えられた課題を「完璧」にこなすことでいっぱいいっぱいの高校生の長女も、同じく与えられた課題を「完璧」にこなすことにやっきになっている中学生の次女も、それから6時間目まで勉強して、帰宅後も塾の課題に追われるクラスの子どもたちも、程度の差こそあれ呑み込まれているように見えます。僕は子どもだった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。そんなところでしょうか。だって、時間を無駄にすることすら許されないのですから。

 

 退屈する暇もない毎日。

 

 創造する(=つくる)暇もない毎日。そりゃ、進学校で勉強漬けになっている彼ら彼女らが愚か者になってしまっても、仕方がありません。愚か者が「資格」をとって権力を握り、民主主義を劣化させるようなことになっても、仕方がありません。偏差値70以上の受験生よりも65~70の受験生の方が遊んできた経験があるからまとも、みたいな話を社会学者の宮台真司さんが何かに書いていましたが、そういった話です。子ども時代の余白が知性を育む。著者が『大分断』に込めた《教育こそが格差を拡大し、民主主義を破壊する》というコア・メッセージの背景には、そういった「教育の劣化」=「学業と知性の分断」=「知性の伴わない教育の階層化」=「社会の大分断」が横たわっています。

 

www.countryteacher.tokyo

 

移民政策は政府がしっかりと管理して行うべきではあるのですが、それと同時に日本人は「無秩序」を学び直す必要があると確信しています。例えば、日本では学校で子供たちに掃除の仕方を教えるといいます。また、スポーツ選手たちのクロークは試合後も非常に綺麗だそうです。それらは非常な美点であり、維持するべきです。しかしそれと同時に「多少秩序が乱れていても世界は崩壊しない」ということを学ぶべきではないでしょうか。

 

 学級崩壊ではなく、40人の子どもたちが朝から夕まで一人残らず背筋を伸ばして座っている教室でもなく、多少秩序が乱れているくらいの、緩さのある、アットホームな教室のほうがいい。時間を無駄にすることが許される教室のほうがいい。とはいえ、その塩梅が難しい。もと教員の岩瀬直樹さんが言っているように、教師のコントロール欲求はなかなかやっかいですから。

 

 子どもにも大人にももっと余白を。

  

 おやすみなさい。