内田 セックスアピールって歴史の関数だから、時代とともに揺れ動くんですよ。イケメンのほうが社会的上昇の確率が高いという時代もあったのかもしれない。でも、いまは違う。贈与経済の話のときに岡田さんが言ったとおり、これからの時代、一番頼りになる人間的資質は「人柄の良さ」です。多様なチャンネルを持っていて、質の高い相互扶助関係ネットワークに登録されている人のほうが生き延びる確率が高い。だから、女性の本能からすれば、そういう人にセックスアピールを感じるはずなんです。
(内田樹、岡田斗司夫FREEex『評価と贈与の経済学』徳間書店、2013)
おはようございます。昨日はせっせと年賀状を書いていました。2期制(前期、後期)の学校で働いていたときには、いつもクリスマス前に投函していたのに、3期制(1学期、2学期、3学期)の学校に赴任してからというもの、年明け前に年賀状を書くことができなくなってしまいました。できないというか、億劫というか。原因はおそらく通知表です。40人分の所見を書いた後に、百枚以上の年賀状を書くっていうのは、正直、つらい。1年の最後くらいは、ゆとりをもって終えたい。
頭は「書け」と言い、
体は「休め」と言う。
大事なのは、フランス文学者で武道家でもある内田樹さんが言うように《身体から送られてくる「こっちに行ったほうがいいよ、そういうことしないほうがいいよ」という生命についての情報》です。頭だけで考えてはいけません。教員は体が資本。だから、教員の本能からすれば、2期制の学校にセックスアピールを感じるはずなんです。2期制であれば、12月に通知表をつくる必要はありませんから。
そもそも、通知表なんて、要らない。
内田樹さんと岡田斗司夫FREEexさんの『評価と贈与の経済学』を再読しました。これからの経済活動は「贈与」がキーワードになってきますよ、という対談本です。で、通知表に対する違和感と、年末に久しぶりに会ってパフェを食べながらお喋りした某有名作家さんから聞いたことと、冒頭に引用した「人柄の良さ」についての話がつながるなぁと思ったので今これを書いています。
人柄の良さ。
内田樹さんと、それから『いつまでもデブと思うなよ』の岡田斗司夫さんは、これからの時代、一番頼りになる人間的資質は「人柄の良さ」と言っています。これからの時代というのは「贈与」がキーワードになってくる時代です。内田さん曰く《とにかく、年長世代からの「がんばってね」っていうフレンドリーな贈与が社会的フェアネスを基礎づける、そういう時代に必ずなると思うんです》云々。岡田さん曰く《人間は強いものに導かれて強くなるんじゃなくて、弱いものをかばうことでしか強くなれない》云々。すなわち、人柄がよければ、パスが、贈与が、まわってくる。
同意です。
でも、小学校の通知表には「人柄の良さ」を評価する項目はありません。思いやりや礼儀などを「行動の記録」として評価し、それに「〇」or「無記入」をつける学校(自治体)もありますが、保護者から「うちの子が礼儀知らずっていうんですか?」なんていう礼儀知らずのクレームを受けたときに、客観的に答えるのはなかなか難しいので、(他の理由もあるのかもしれませんが)私の学校(自治体)では「行動の記録」はカットされています。そもそも「人柄の良さ」は数値化しようがない。担任との相性もある。だから無理に評価する必要はない。似たようなものでいえば、道徳の所見も要らない。
ぼくらが問題にしている武道的な能力って、「共感性が高い」とか「微細な身体シグナルを感知できるとか」とか「わずかな不愉快な入力に反応できるとか」っていうような種類のもので、そういうのって、「なんでも食べられる」とか「どこでも寝られる」とか、そういうタイプのプリミティブな生物の生きる力に近いものだから、そんなもの数値化してもしょうがない。そもそも数値化しようがない。
問題は、教科のABCという、人間的資質のひとつでしかないものさしで測った一面的な評価に、子どもたちが一喜一憂したり、教員や保護者が振り回されたりしているということ。外山滋比古さんの有名な表現を借りれば《ひとつだけでは、多すぎる》ということ。某有名作家さんもこう言っていました。
人に好かれるとか、可愛がってもらえるっていうのは本当に大事。
成績は振るわないけど、旅をさせたくなるような可愛い子って、意外と多いんです。容姿の話ではありません。従順さの話でもありません。憎めないとか、愛敬があるとか、そういった類いの話です。旅をしたらいろいろなタイプの大人に構ってもらえて、いろいろなタイプの能力を引き出してもらえるだろうなぁという子。贈与の経済活動に自然と入り込める子。
可愛い子には旅をさせよ。
逆に、成績はよくても、可愛さに欠ければ、おそらくは旅をしても得るものは少ないでしょう。気にかけてもらえず、パスが回ってこず、贈与のサイクルになかなか入り込めないからです。そういった子に、どのような支援をしていけばよいのか。
可愛さに関して、作家さんはこう続けます。ここが今回のブログ記事のセックスアピールです。
私が可愛がってもらえたのは、愛情不足だったからかもしれない。
家庭環境に恵まれず、子どもの頃に愛情に餓えていたからこそ、愛情を求めるための表現がうまくなって、成長過程はもちろんのこと、大人になってからも様々な人たちに助けてもらえたのかもしれない。そう言うんです。
考えさせられます。
確かに、そういう子って、毎年います。家庭環境は「?」だけど、おそらくはそのことが原因で成績は振るわないけど、何となく気にかけてあげたくなる子。以前からその作家さんはこう主張していました。家庭環境に恵まれないから子どもがダメになるなんて、そんなことはない。そんな単純な話ではない。つまりは次のような逆説です。
幡野広志さんの『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』を目にするたびに子育ての難しさを思う。「子どものころ、ほしくなかった親」に育てられた幡野さんが、こんなにも立派な写真家・エッセイストになっているのだから。愛情の欠如が子どもの未来を逞しくするケースもある。やはり難しいなぁ。
— CountryTeacher (@HereticsStar) December 30, 2020
子どものときに愛情(贈与)に恵まれなかったからこそ、大人になってから愛情(贈与)に恵まれるようになったという逆説&フェアネス。だから「子どものころ、ほしかった親になる」ことが本当に子どものためになるのかどうかはわからないという、リアル。
愛情の多寡や在り方って、ホント、難しい。
幡野さんも、その某有名作家さんも、子どもの頃の成績はいまいちだったと言います。各教科の3観点にCCCなんてつけざるを得ない子どもの中に、幡野さんがいるかもしれない。某有名作家さんがいるかもしれない。彼ら彼女らは、通知表では表すことのできない、これからの経済活動(人生)に最も必要とされる別の何かをもっているかもしれない、それなのに。
そう考えると、師走の時期に何十時間もかけて無賃労働(残業、持ち帰り仕事)で作成する「通知表」っていうのは、いったい何なんだ、と。彼ら彼女らにダメ出しをしてしまう「通知表」って、いったい何なんだ、と。
パフェでも食べながら、三者面談すればいい。
いつまでも通知表と思うなよ。