だが、これがこのオリンピックを象徴していたのかもしれない。外見的には華やかだが内実の欠けたオリンピック。それはサマランチの国際オリンピック委員会が、商業主義の権化たるアメリカのテレビ局の前にひれ伏し、オリンピックのすべてをテレビ的にしようとしたことの結果でもある。
現在、あらゆる競技は「テレビ的」であるかどうかで存続の可否を決定されるという悲惨な方向に向かいつつある。外見ばかりで内実の伴わないがらんどうの競技。がらんどうの大会。そうなってしまうのはもう目前に迫っているかのようだ。
(沢木耕太郎『冠〈廃墟の光〉 オリンピア1996』新潮文庫、2021)
おはようございます。上記の「冠」は「コロナ」と読みます。月桂冠(オリーブ・クラウン)を王冠ではなく、太陽の光冠に見立てたネーミングです。初版はなんと、
2003年。
そんな時代に「コロナ」というタイトルで「オリピック」のルポタージュを書くなんて、キリストもびっくりの「預言」といえるのではないでしょうか。さすが沢木耕太郎さん。バックパッカーの「バイブル」と呼ばれる『深夜特急』の生みの親だけのことはあります。
その預言者である沢木さんが、神話の舞台、ギリシャのオリンピアにて、次のような神託を受けます。
近代オリンピック百年の軌跡を眺めると、古代オリンピックが千二百年かけて辿った軌跡を、十倍のスピードでなぞっているように見える。近代オリンピックは、いま、ゆっくりと滅びの道を歩みはじめたのではあるまいか・・・・・・。
崩壊を加速させよ。
沢木耕太郎さんの『オリンピア1996 冠〈廃墟の光〉』を読みました。近代オリンピック100年の節目となった、1996年のアトランタオリンピックをクリティカルにレポートしたルポタージュです。2021年、コロナ禍における東京オリンピックというこのタイミングで読むに相応しい一冊。ルポというかたちをとっているだけに、沢木ファンとしては『深夜特急』の気分を味わうこともできて、二度嬉しい一冊でもあります。
例えば、次のくだり。
ようやく数台のバンがやってきて、係の人にどのバンに乗ったらいいかの指示を受けることができた。私が乗ったバンには私以外の誰も乗らず、おまけにドライバーが若く美しいラテン系の女性という恵まれたものだった。おかげで、二時間も待たされたことなどすっかり忘れてしまった。
旅がしたくなります。
目次は、以下。第八章に続けて「あとがき」が3つ。あとがき「Ⅱ」と「Ⅲ」はコロナ禍に書かれたもので、あとがき「Ⅱ」には《そのコロナという言葉に、最近、まったく新しいイメージが付与されることになった》とあります。
序 章 冬のオリンピア
第一章 ささやかな助走
第二章 始めようぜ!
第三章 普通の国のジャンヌ
第四章 ストーン・マウンテンまで
第五章 華と爆弾
第六章 スターのいる風景
第七章 カーニバル、カーニバル
第八章 祭りは終わった
あとがき「Ⅰ」~「Ⅲ」
解説 阿川佐和子
当然、第一章から第八章がメインです。特に閉会式(冒頭の引用)後にフラッと立ち寄った店でスティーヴィー・ワンダーと遭遇し、隣の席で彼の鼻歌を耳にしながら《もしかしたら、アトランタの十七日間で最も贅沢な時間だったかもしれないな》と回想している場面なんて最高です。が、もしもこの本をオリパラ教育で取り上げるとしたら、序章の「冬のオリンピア」がベストでしょう。古代オリンピックを近代オリンピックとして蘇らせた人物は、どのような思いをもってその一大事業を成し遂げたのか。オリンピック発祥の地、ギリシャのオリンピアを20年ぶりに訪ねた沢木さんが、オリンピックの「初心」に迫ります。
初心、忘れるべからず。
この日、私がまず行ってみたかったのは「クーベルタンの森」と呼ばれている場所だった。そこには近代オリンピックの生みの親であるクーベルタンを顕彰する碑が立っているという。私はその碑を見てみたいと思っていた。
沢木さんが言っているのは、そう、ピエール・ド・クーベルタン(1863-1937)のことです。歴史に埋もれてしまった古代オリンピック。そのオリンピックの復興にあたって、クーベルタンが掲げた大義名分、すなわち「初心」はどのようなものであったのか。
① あくまでも個人のものであり、平和のためのもの。
② 若者たちを救済し、道徳的な混乱をしずめるもの。
③ 若者たちの出逢いを通して、国際主義を生むもの。
教育っぽい。
沢木さんによると、クーベルタンは別の文脈で《偉大な教育改革に私の名を結びつけたいとの欲求に動かされて》と述べていたそうです。教育に強い関心のある人物が近代オリンピックを復興したという事実。オリパラ教育に取り上げないわけにはいきません。
だが、クーベルタンはその夢想を育み、粘り強く実現させていこうと努力した。たぶん、その持続こそがクーベルタンの独創だったのだ。
様々な困難を乗り越え、ほとんどたった一人で近代オリンピックを軌道に乗せたクーベルタンでしたが、彼が実現した夢想は、徐々に当初の理想とは異なるものになっていきます。古代オリンピックが内部から腐っていったのと同じように、近代オリンピックもまた、後の「ドーピングやら巨大資本やらプロに門戸を開くやらテレビ局やらサマランチやらバッハやら森喜朗やらコカコーラやら」に連なる残念なもろもろによって腐っていったというわけです。世界一カネのかからない五輪が、世界一カネのかかる五輪に変容していったのと同じです。クーベルタンも猪瀬直樹さんもがっかり。
ちなみに東京オリンピックでも批判されているコカコーラについては、アトランタオリンピックのときにも同様だったようで、沢木さん曰く《いくら喉が渇いているからといって、いくらタダだからといって、コカコーラなど飲むものか!》とのこと。シドニーや北京でもそうだったのでしょうか。東京オリンピックの学校観戦に際しては、
持ち込み飲料はコカコーラ社でお願いします。
そりゃ、保護者も怒ります。そして学校はびびります。冒頭の引用を真似れば、現在、学校のあらゆる教育活動は「保護者受け」がよいかどうかで存続の可否を決定されるという悲惨な方向に向かいつつあるからです。コカコーラ社は日本の学校が「保護者に怒られないように」最適化してしまっている(By 川上量生さん)ことを知らないのでしょう。そしてそのように最適化してしまっているのは、学校もまた、オリンンピックと同じように初心を忘れているからです。初心を忘れれば、外見ばかりで内実の伴わないがらんどうの教育活動が量産されます。教師も子どもも、疲弊するばかり。
初心、忘れるべからず。
オリパラ教育に、ぜひ。