田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

沢木耕太郎 著『深夜特急5 トルコ・ギリシャ・地中海』より。自信と鈍感さを携えて、中堅&ベテラン教師の旅。

 今このイスタンブールでも、思いがけない成り行きから名前も定かではないオンボロ宿に泊まり、これからどうなることやらと考えている。
 しかし、同じような状況にありながら香港の時のような湧き立つような興奮がないのはなぜだろう。
(沢木耕太郎『深夜特急5 トルコ・ギリシャ・地中海』新潮文庫、1994)

 

 こんばんは。ここ数日、沢木耕太郎さんの『深夜特急』を読み返していました。デリーからロンドンまで乗り合いバスで行く。多くの若者を異国へと駆り立てた、バックパッカーのバイブルです。その昔、ご多分に洩れず、思いっきり「駆り立てられた」身としては、原点回帰というか、定点観測というか、何年かに一度、無性にその世界に入っていきたくなります。

 

 

 旅が与えてくれたもの。

 

 9ヵ国目となるトルコの地で、沢木さんは 《旅は私に2つのものを与えてくれたような気がする》 と書き、その2つとして「自信」と「鈍感さ」を挙げています。旅慣れによる「自信」が「鈍感さ」を生んだという話です。

 

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イスタンブールにて、1泊5$のドミトリー(男女共用)

 

 さかのぼることミレニアム前後。マレー半島を一周したり、インドを一周したりして自信をつけ、バイトで貯めたお金を握りしめながら、次はヨーロッパだ(!)と「沢木耕太郎」にでもなったつもりで意気揚々と向かったトルコの地。イスタンブールに足を踏み入れたときにはもう、旅慣れによる「自信」と「鈍感さ」にやられていたのだと思います。隣の二段ベッドでくつろいでいる「半裸状態」のオランダ人女学生の二人組に声すらかけられない小心者ではあったものの、旅に対してはちょっと大胆になっていました。その結果、初めてのヨーロッパの地(ブルガリア)で、痛い目に遭います。

 

 自信と鈍感さから生まれる、あまさ。

 

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イスタンブールの旧市街を望む、数日後のカタストロフィーを知ることもなく

 

 黒海を見てみたい。そう思ってのブルガリア第3の都市バルナ行きでしたが……。

 

 イスタンブールからバルナに向かうバスにて。

 

 国境を越えたあたりでしょうか、隣に座っていたドイツ人カップルに「ブルガリアの後はルーマニアに行く」という話をしたところ、彼女さんの口からこんな言葉が飛び出しました。

 

「オー、カタストロフィック・ロード!」

 

 大学受験のときに覚えた「カタストロフィー」という英単語。たしか破滅とか、大惨事とか。頷く彼氏さんを横目に、なぜカタストロフィックなんだ(?)って。真剣にそう考えればよかったのですが、旅慣れによって生まれた自信が「なぜ?」を押しとどめてしまいます。
 

 バルナ到着、深夜2時。

 

 そんな時刻に到着するバスに乗るなんて、その時点でもう、危険に対する鈍感さ爆発です。泊まるところも決めていなかったし。あますぎ。真っ暗な中、一人バス停に取り残され……。その後、命を奪われなかっただけまし、というトラブルに巻き込まれます。というか、トラブルを引き寄せます。大事なカメラもトラブルに持っていかれて、ブルガリアの写真ゼロ。あぁ。詳細は別の機会に。

 

 〇年〇組は、私にとっての「9ヵ国目」にあたります。

 

 教師にとっての学級を、旅人にとっての国に例えれば、そんなふうに表現できます。教師は、旅人のようなもの。湧き立つような興奮を覚えたという、沢木さんにとっての香港は、初任者にとってのはじめての学級と同じです。旅を続け、時間が経ち、学級担任を9回もやれば、自信がついて、鈍感さも生まれます。自信ゆえに疑問や変化を受けつけなくなってしまったり、鈍感さゆえに子どもの成長やつまづきを見逃してしまったり。かれこれ20年近く学級担任を続けている私にとってはあるあるの話。中堅&ベテラン教師の多くにとっても、きっと、と思います。

 教師に限らず、「自信」と「鈍感さ」にやられてしまっているその道のベテランたちに、詩人が、実にうまい言葉を遺しています。

 

 自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ  

 

 夏休み明け、肝に銘じておきたいものです。