田舎教師ときどき都会教師

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映画『つつんで、ひらいて』(広瀬奈々子 監督)と 平野啓一郎さんの「本が本であるためには」と 装幀者・菊地信義さんのモノづくりと。

 映画『つつんで、ひらいて』の中でも、監督が「受注仕事」についてどう思うかと質問する場面がある。それに対して、菊地さんは、創作に於ける「他者性」と「関係性」の重要さを強調する。
 これが、いかにも本心らしく響くのは、旧知の編集者と蕎麦屋で会話をしている時に、自分は「こさえる(拵える)」という言葉が好きだ、なぜならそこには、誰かのためという「他者性」があるから、と語るその表情のせいでもある。菊地さんにとって、デザインという言葉に最も相応しい日本語は、この「拵える」だというのは、ハッとさせられる指摘である。
(劇場用パンフレット『つつんで、ひらいて』装幀 菊地信義+水戸部功、2019)

 

 おはようございます。昨日、仕事帰りにドキュメンタリー映画『つつんで、ひらいて』(広瀬奈々子 監督作品)を観てきました。上記の文章は、小説家の平野啓一郎さんが劇場用パンフレットに寄せた「本が本であるためには」からの引用です。これまでに数多くのパンフレットを手にしてきましたが、その「こだわり」感でいうと、映画『つつんで、ひらいて』のそれに勝るものはなかったように思います。さわり心地も、手づくり感も、そして広瀬監督いうところの「ひらいたときに香ってくるもの」も、唯一無二だなぁと思えるパンフレットです。さすがは菊地信義さんが装幀を手がけているだけのことはあります。

 

 菊地信義(きくちのぶよし、1943ー)

 

 菊地信義さんは日本の装幀家(本人は「装幀者」と称する)の第一人者であり、映画『つつんで、ひらいて』の主人公です。これまでに手がけてきた装幀は、2月に他界された古井由吉さん(映画に登場します❗)の『古井由吉自撰作品』をはじめとする大部分の著作物や、歴史の教科書などで知られる山川出版社のほぼすべての出版物など、およそ1万5千冊。平野啓一郎さんの『決壊』や『透明な迷宮』、それから下の写真にある『考える葦』もその中の一冊です。

 

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劇場用パンフレット『つつんで、ひらいて』& 平野啓一郎さんの『考える葦』

 

 装幀者・菊地信義さんのことは、平野啓一郎さんの『考える葦』に収録されているエッセー「俯瞰と没入――菊地信義『菊地信義の装幀 1997~2013』」を読んだときに知りました。そのエッセーには《本の売り上げが年々低下の一途を辿っていく状況と電子本の登場という出来事を背景に、装幀家の仕事はどう変化したのか?》とあります。

 

 装幀家の仕事はどう変化したのか?
 その前に、装幀家とはどんな仕事なのか?

 

 広瀬監督の『むすんで、ひらいて』は、装幀家とはどんな仕事なのか(?)に加えて、装幀家という仕事はどう変化したのか(?)という問いにも答えてくれる、そして「どのように本というモノが印刷されたり製本されたりしているのか」ということについても教えてくれる、本好きにはたまらなく嬉しいドキュメンタリー映画です。

 

www.magichour.co.jp

 

 本というものはモノである。

 

 菊地さんの言葉です。『むすんで、ひらいて』は、装幀家という仕事とともに、「本=モノ」ということがよくわかる映画といえます。小芥子や寄木細工をつくる職人さんと同じように、菊地さんは本の装幀、すなわち作品の言葉に合った「身体」をつくることに徹底的なこだわりを見せます。

 

 紙へのこだわり。
 インクへのこだわり。
 作品のイメージ把握へのこだわり。

 

 そして「他者性」と「関係性」へのこだわり。

 

 広瀬監督とのインタビューの中で、菊地さんは《芸術家ではなく、デザイナーでもなく、職人という意識があります》と語っていますが、まさに「こだわり」肌の職人です。しかも、誰かのためにという「他者性」をもった、ちょっと学校に来て子どもたちに「生き方」を語っていただけませんか、と頼みたくなるような「つながり」肌の職人でもあります。

 

 こだわり と つながり。

 

 2つの肌を持ち合わせた菊地さんは、古井由吉さんをはじめとする作家だけでなく、印刷したり製本したりする「本をつくる人々」にも頼られ、そして慕われています。平野啓一郎さんも、冒頭の「他者性」につなげるかたちで《自分の書いた小説も、まるで、菊地さんのデザインに寄与するために書かれたかのような感じさえしてくるのだった》と書き、菊地さんに対するリスペクトを隠そうとしません。結局、人。やっぱり、生き方です。

 

 他者性とこだわりって、大事ですよね。

 

 映画を観ながら、電子本が増えても紙の本がなくならないのと同じように、インターネットなどによる映像授業(オンライン教育)が脚光を浴びても、学校の授業はなくならないだろうなぁと感じました。他者性や関係性を学ぶには、やはり「言葉を五感へと届ける」学校という場が適切だと思うからです。

 とはいえ、学校に長くいると「こだわり」は育ちません。こだわりや考える葦は、吉本隆明さんもいっていたように、学校の先生や親の目の届かないところで伸びます。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 だから、例えば午前中は学校で友達と一緒に勉強し、午後は自宅に帰って映像授業で勉強する(或いは好きなことに没頭したり遊んだりする)というのはどうでしょうか。そうすれば、教員の働き方もまともなものになるような気がします。装幀家の仕事だって、電子本の登場を機に、さまざまな面で「変わらないために変わり続けている」のだから。教育も「変わらないために変わる」必要があります。

 

 今朝も「言葉を五感に届ける紙の本」を手に持って。

 

 行ってきます。 

 

 

考える葦

考える葦

 
決壊 上巻

決壊 上巻

 
決壊 下巻

決壊 下巻

 
透明な迷宮

透明な迷宮