この作品に限らず、映画を作るときに一貫しているモチーフは個の孤独です。もちろん、一本の映画にはいろいろなモチーフが組み合わさっていますが、中でも自分が一番信じられるもの、普遍的だと思うものが人は孤独であるということであり、それが作品の世界観の根幹になっています。家族であっても、夫婦であっても、友だちであっても、本当のところは、隣にいる人が何を考えているのかなんてわからない。
(劇場用パンフレット『LOVE LIFE』SDP、2022)
こんばんは。映画監督の深田晃司さんがそう言うように、夫婦であっても、本当のところは、隣にいる人が何を考えているのかなんてわかりません。他者は、わからない。いきなりのネタバレになりますが、映画『LOVE LIFE』のエンディングが示唆するように、他者理解はある種の諦めからしかスタートできないということです。平田オリザさんの本のタイトルを借りれば、
わかりあえないことから。
2週間ほど前に、映画『LOVE LIFE』(深田晃司 監督作品)を観ました。基本的には「わかりあえない」と思っているからでしょうか。もう一度観たいなって思った映画がマル激の「5金スペシャル」(無料、映画特集)に取り上げられると「わかりあえた」気持ちになって嬉しくなります。『LOVE LIFE』はやはり傑作だった。社会学者であると同時に映画の批評家でもある宮台真司さんと、相棒の神保哲生さんが次のように言うのだから間違いありません。
神保さん「本当にいい映画ですよ」
宮台さん「これは凄い」
神保さん「最後、逆立ちしましたもん、僕」
宮台さんは深田監督の描く『LOVE LIFE』を次のように説明します。
深田作品の多くは、同じ世界にいると思った人が、実は同じ世界にいなかったということがわかって、つまりそれはハッピーというよりはアンハッピーなことで、どちらかというと悪い方向にどんどん気付きが進み、最後は人間はやっぱり一人で生きていくんだな、みたいな感じで終わる。ひとつ前の『横顔』っていう作品がそういうものだった。それとモチーフはつながっているんだけど、この『LOVE LIFE』については、まさにこの主題歌の「LOVE LIFE」がそうであるように、アンハッピーエンド、バッドエンドではない。むしろハッピーエンドだといってもいい。
なぜハッピーエンドなのか?
他者理解は「わかりあえないことから」始まるということに、木村文乃さんと永山絢斗さんが演じる夫婦の姿や、二人を取り巻く家族や友人たちを通して気付くことができるからです。永山さん演じる大沢二郎曰く、
いつからだろうね、僕らが目を見て話さなくなったのは。
木村さん演じる大沢妙子には連れ子がいて、前夫は韓国籍の聾者という設定です。途中、妙子と前夫が手話でやりとりするのを二郎が眺めるシーンがあって、それがまさに宮台さんいうところの《同じ世界にいると思った人が、実は同じ世界にいなかった》なんです。妙子と前夫は目を見て話しているんですよね。そして二郎は手話がわからない。逆に妙子が「同じ世界にいると思った人が、実は同じ世界にいなかった」と決定的に気付くシーンもあります。それがどれくらい決定的なのかといえば「神保さんが逆立ちしてしまうくらいに」です。小説家の平野啓一郎さんの言葉を借りれば、
最愛の人の他者性。
そう表現できるでしょうか。家族であっても、夫婦であっても、恋人であっても、本当のところは何を考えているのかなんてわからない。でも、わからないということがわかると、つまり最愛の人の他者性を受容できると、逆説的にわかることがでてくるのかもしれない。だからわからないからって関係を断ってしまうのはもったいない。わかりあえないと思えるくらい相手のことを考えたのであれば、そこから何かが始まるかもしれない。矢野顕子さんの名曲「LOVE LIFE」に想を得たという、深田監督の映画『LOVE LIFE』には、そういった逆説の存在に気付かせてくれるラストが用意されています。だからアンハッピーエンドではなく、
むしろハッピーエンド。
障害者であっても、本当のところは何を考えているのかなんてわからないように、友だちであっても、本当のところは、隣にいる人が何を考えているのかなんてわからないよね。現在、大学の先生と一緒にそういった内容のオリパラ教育を計画しています。ねらいはもちろん、他者理解。
教育できないと思えることから。
先日、大学の先生と打合せをしているときに、教育についてもある種の諦めから始まることがあるんじゃないかなっていう話になりました。家庭環境がしんどすぎる子どもや重度のASD(自閉症スペクトラム)の子どもにわかってもらおうとしたところで、或いは彼ら彼女らをわかろうとしたところで、当然、限界があります。その限界を突き詰めていくよりも、これ以上はもう無理って諦めた方が、逆説的にうまくいくことってあるんじゃないかなという話です。もちろんそのことは、程度の差こそあれ、教室にいる全ての子どもに当てはまります。いわば、
教育できないと思えることから始まる教育。
どうでしょうか?