田舎教師ときどき都会教師

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平野啓一郎 著『死刑について』より。死刑存置派から死刑廃止派へ。他者と、問いと、創作を通しての変容を語る。

 最近、「親ガチャ」などという言葉が流行っています。これは、自分たちは親を選ぶことができず、どのような環境で育つかは運次第だという諦めや苛立ちを、カプセル玩具が無作為に出てくる「ガチャガチャ」にたとえたものですが、若い人たちがそのように切実に考えてしまう気持ちも理解できます。それぐらいに厳しい格差社会を生きていると感じているのでしょう。
 国が劣悪な生育環境などを放置しておきながら、罪を犯したら徹底的に自己責任を追及するということは、可能なのでしょうか。
(平野啓一郎『死刑について』岩波書店、2022)

 

 こんばんは。永山則夫が「まなざしの地獄」に苦しんでいたとしたら、山上徹也は「沈黙の地獄」に苦しんでいたのではないでしょうか。明らかな「悪」がそこにあるのに、社会はその「悪」を排除するどころか、増長させているとしか思えない。おそらくは諦めと苛立ちを抱いていたのでしょう。引用にある「親ガチャ」を誰よりも切実に考えていたのが山上というわけです。

 

 

 本来であれば、公教育は「親ガチャ」を少しでも薄める方向に機能しなければいけません。しかし現実は、学校そのものが「親ガチャ」に対して諦めと苛立ちを抱えてしまって、薄めるどころか濃くしているのではないかと思うこともしばしばです。学校にまともな「人」と、十分な「予算」を投入しない限り、「親ガチャ」は薄まりません。それどころか、教員不足が叫ばれる現在は、親からすると「担任ガチャ」というのが本音でしょう。社会学者の宮台真司さん曰く、

 

 公共性の基本は、明日は我が身。

 

 もしも私が山上と同じような生育環境に置かれていたとしたら。遠藤周作の『沈黙』以上にきついだろうなぁと思います。なんといっても、沈黙しているのは「神様」ではなく「社会」ですから。それでいて「死刑」だったら、

 

 たまりません。

 

 

 平野啓一郎さんの『死刑について』を読みました。2019年の平野さんの講演「芥川賞作家  平野啓一郎さんが語る死刑廃止」(大坂弁護士会主催)をもとにした作品です。平野さんは、

 

 20代後半までは「死刑存置派」に近い考えをもっていた。
 40代後半の今は「死刑廃止派」の立場に立っている。

 

 道徳の授業でいうところの「変容」です。なぜ「変容」したのか。読むとよくわかります。目次は、以下。

 

 死刑は必要だという心情
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに向き合って
 多面的で複雑な被害者の心に寄り添うとは ――「ゆるし」と「憎しみ」と
 なぜ死刑が支持され続けるのか
「憎しみ」の共同体から「優しさ」の共同体へ ―― 死刑の廃止に向けて

 

 最初の「死刑は必要だという心情」には、永山基準の話が出てきます。見田宗介さんが『まなざしの地獄』で取り上げた永山則夫のことです。一人の命を奪ったら無期懲役、三人以上なら死刑、二人の場合はボーダーラインという「基準」をつくることになった、1968年の連続射殺事件。その基準に照らすのであれば、山上が死刑になることはありません。しかし安倍元総理と深い愛情で結ばれていた人たちにとっては心情的に納得いかないでしょう。平野さんも、この心情的な側面から死刑が必要だと考えていたと書いています。

 

 では、なぜ平野さんは考えを改めたのか。

 

 次の「『なぜ人を殺してはいけないのか』という問いに向き合って」には、留学時代のヨーロッパの作家たちとの交流が「変容」のきっかけを準備したという話が書かれています。

 

彼らと話をしていると、本当に心地よい。そして、彼らのそうした精神や思想の中に、死刑制度に反対する考えが無理なく場所を得ていて、全体として矛盾のない統一感のある思想として語られているように感じたのです。
 社会的弱者に共感したり、国家権力の暴力性に抵抗したりと、様々な意味で、自分は彼らと精神や思想を同じくしている。にもかかわらず、死刑制度に賛成するという一点では、例外的に違っている。それはどういうことなのか?

 

 EU(欧州連合)はその加盟条件に死刑廃止を掲げています。ヨーロッパの作家たちがもつリベラルな思想に死刑廃止がナチュラルに収まっていたこと。そのロジックに平野さんは感銘を受けたというわけです。ただし帰国後も心情的には死刑制度があっても仕方がないと考え続けていたそうなので、まだ死刑廃止派にはなっていません。

 

 なぜ人を殺してはいけないのか。

 

 1997年、神戸連続児童殺傷事件を受けて、テレビの中で高校生が発した問いとして知られています。同タイトルの本を出した小浜逸郎さんをはじめ、様々な意見が出されたことを私も覚えていますが、平野さんはその問いに対して「第一には、憲法があるから」と答えます。京都大学の法学部を出ている平野さんらしい視点です。さらに、この問いがきっかけとなり、加害者ではなく被害者に注目して、小説『決壊』を書き上げます。この『決壊』を書き上げたことが、変容につながったとのこと。

 

 ところが、この小説を書き終わってみると、自分でも意外な心境の変化がありました。これはまったく意図していなかったのですが、とうとう、心の底から死刑制度に対して嫌気がさしていました。

 

 まとめると、他者(ヨーロッパの作家たち)との対話、なぜ人を殺してはいけないのかという問い、そして『決壊』という創作を通して、死刑存置派から死刑廃止派に変わっていったというわけです。他者と問いと創作、道徳の授業に応用できるとすれば、他者と問いかな。

 

 嫌気がさしたという理由が2つ。

 

 1つ目は『決壊』を書くにあったっての取材で、警察の捜査のあり方に強い不信感をもったこと。そして2つ目は、永山や山上と同様に、加害者の生育環境が酷いケースが少なからずあったということです。この2つ目が冒頭の引用につながります。長いこと教員をしていると、それ、わかるなぁ。もしも死刑存置派が、加害者は生きているのに被害者はもうこの世にいないという非対称性を問題とするのであれば、そしてその非対称性を解消するために死刑の存置を願うのであれば、生育環境における非対称性も話題にしなければフェアではありません。もちろん、永山にせよ山上にせよ、やったことは許されることではありませんが。

 ちなみに『決壊』は全方位的に重たい小説で、友人も「もしも私が最初に『決壊』を読んでいたら、平野さんの他の作品を読もうとは絶対に思わなかった」と話していました。興味をもった方は、覚悟のもとで読んでください。

 

 

 昨日、1学期が終わりました。張り詰めていたものが「決壊」し、昨夜から発熱しています。

 

 コロナかもしれない。

 

 ご自愛を。