田舎教師ときどき都会教師

テーマは「小学校教員の働き方と生き方」&「本、旅、人」

国民性は小学校の教室から? 壮大なマッチポンプと心のレガシーと。

 マレーシアの現地スタッフが気持ち良いのは、発生した不満を解消したり飲み込んだりせずに、本当に次々と辞めてしまうところだ。料理長のことが信じられなくなりました。うん、僕も、そんなの私もよ、と立て続けに辞めていくのだ。
~中略~。個人の意思を抑えて、集合体のスローガンを優先するシステムが個人のOSにアプリケーションとして内蔵されているらしい。多様性が、その時々の一律性を育んでいくのだ。マレーシアのパン屋のように、次々と辞めていかない日本の国民性とも言える。辺見庸が言う「自分で少し自信がないなと思っても、声をあげて言う」というシンプルな宣言に勇ましさを覚えなければならないほど、声をあげることへの弱体化が甚だしい。
(武田砂鉄『紋切型社会』朝日出版社、2015)

 

 3連休の中日の今日は自宅で仕事をしています。採点とか得点の入力とか週案とか公開授業を含む来週の授業準備とか配布文書の作成とか通知票の所見とか教材の買い出しとか。いわゆる持ち帰り仕事です。

 発生した持ち帰り仕事を平日の夜にやったり土日に片付けたりせずに、「もう、やってられない」(10月4日の中教審で生まれた名言 By 鹿児島県立甲南高校の西橋瑞穂校長)と声をあげて本当に次々と教員が辞めてしまえば、オックスフォード英語辞典にも掲載されている「KAROSHI」という言葉を生むようなシステムが温存されることはないだろうに。

 武田砂鉄さんが「本当に次々と辞めてしまうマレーシア人」を評して「気持ち良い」と書いていますが、そうすると「本当に死ぬまで働き続けてしまう日本人」は「気持ち悪い」ということになります。なるほど、休日に仕事をしている私は「気持ち悪い」んだな。もしかしたら思春期の娘がときどき口にする「パパ、キ〇〇」ってこのことか?

 

 次々と辞めていかない日本の国民性。

 

 問題は、その気持ち悪い国民性を作っているのは、小学校の教室かもしれないという、壮大なマッチポンプにあります。つまり、教室で自らが作りあげている国民性によって、過労死レベルの働き方を強いられているかもしれないのに、持ち帰り仕事に毒づいているという喜劇的な構図。あながち的外れな考えではないことを、次の記事が指摘しています。

 

《議論好きなフランス人、和を尊ぶ日本人。これらの国民性が小学校の教室から作られているとすれば、どう思いますか?》

 

 

「和を尊ぶ日本人」と書くと聞こえはよいけれど、武田さんの本にあるように「個人の意思を抑えて、集合体のスローガンを優先する日本人」と書くと、集合体のスローガンが間違っていたときにはどうするのだろう、と不安になります。

 そんな不安を解消すべく(っていうわけではありませんが)、神保町に行って武田さんの対談を聞いてきました。1年前の話です。対談相手は小説家の平野啓一郎さん。どちらかといえば、平野さんメインの対談です。

 

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平野啓一郎さんと武田砂鉄さんの対談、神保町にて(18)

 

 ここからは平野さんの話。

 

 小説は「現代の読者のことを考えて」書いている。そしてそれは「現代のことを考える」とニアリーイコールである。現代の読者は、短い時間感覚で物事をとらえるため、昔の小説にあるような長い導入に耐えられない。それくらい忙しい。

 

 そんな話や、次のような話が心に残りました。

 

『葬送』の主人公の一人である画家のドラクロワは悩みを抱えていた。それは、最初に描くラフ・スケッチは生き生きとしているのに、手を加えて完成度を高めていくにつれて、その「生き生きさ」がなくなっていくということ。その「生き生きさ」を残すにはどうすればいいのか。そういった悩み。

 

 ドラクロワの話は、学校でいうところの、指導案を作り込めば作り込むほど、或いは授業をコントロールしようとすればするほど、「生き生きさ」がなくなって、授業がおもしろくなくなっていくという話と似ています。また、昔の先生は(ノスタルジーが入っているかもしれませんが)けっこうラフにやっていて「生き生き」としていたのに、今の先生は求められることが増え続けているのにラフさは許されないという状況で、多忙ゆえ「生き生きさ」がなくなっているという話とも似ています。

 

 生き生きさがなくなっているのも、私たちが教室で作っている国民性ゆえのことかもしれない。う~ん。

 そんな「う~ん」は忘れて、明日は平野さん原作の映画『マチネの終わりに』を観に行きます。楽しみだぁ。

 

  最後におまけ。

 

 武田さんの今日のツイート、笑いました。曰く「わけのわからない領域に」って、バカうけ。「笑壺に入る」とはこのことです。

 

 

 心のレガシーの前に、
 負のレガシーの精算を。 

 

 

紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす

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マチネの終わりに (文春文庫)

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