もう一つ、子供を育てるようになって、やはり、自分自身の幼い頃の心情がしきりに思い返されるようになった。そして、当時はよくわからなかった、子供を見つめる大人たちの心情も。
そんな風に今、手に取って左見右見している記憶は、この先また十年、二十年と長くもつものではあるまいか。
懐かしい郷里への愛着も、そうして何度か更新されてゆくのだろう。
(平野啓一郎『考える葦』キノブックス、2019)
こんばんは。3連休の終わりに、映画『マチネの終わりに』を観てきました。平野啓一郎さんの小説『マチネの終わりに』を読んでから3年半、待ちに待った上映です。
あれから3年半も経つのかぁ。
原作のある映画については、「原作を読んでから映画」という順番ではなく、「映画を観てから原作」という順番で味わった方が Good ということを以前に下記のブログで書きましたが、『マチネの終わりに』については、「原作を読んでから映画」という順番でも十分に満足できました。むしろ原作である小説を読んでおいてよかった。3年半の熟成が、小説と映画の距離感を最適化してくれたように思います。
誰かの人生の脇役で生きる。
桜井ユキさん演じる「三谷早苗」の存在感が圧倒的でした。主演の福山雅治さん(蒔野聡史 役)と石田ゆり子(小峰洋子 役)さんを凌ぐくらいに、です。
早苗は、蒔野と洋子がすれ違う原因をつくったキーパーソンです。また、二人が再会するきっかけをつくったキーパーソンでもあります。二人の運命を動かしているのも、物語を動かしているのも、「正しく生きることが私の人生の目的じゃないんです。私の目的は蒔野なんです」という「脇役」を自認する早苗といっていい。
小説を読んだときには、それは🆖だ(!)という手を使って「蒔野の妻」になった早苗のことを「あざといなぁ」と感じていましたが、映画では早苗に感じていた「あざとさ」は薄れ、代わりに「真っ直ぐさ」のようなものが伝わってくるから不思議です。
平野さんは、西谷弘 監督との対談の中で《読者の2、3割は「私は早苗の気持ちもわかる」というような人物にしたかった》と話しています。
小説を読んだときにはその2、3割に入ることができなかった。
しかし、映画を観たときにはその2、3割に入ることができた。
小説が映画になると、映像のもつ力ゆえに、主人公以外の登場人物の存在感が増すような気がします。だから早苗の存在感が増し、その行動に共感できるようになった。小説と映画の違い、と言ってしまえばそれまでですが、映画を通してその2、3割に入れたことで、小説の印象が随分と変わったことは確かです。
昨日の映画体験によって更新された3年半前の小説体験。未来は過去を常に変えてるんです。『マチネの終わりに』のモチーフともいえる蒔野の言葉を引けば、そんなふうにいえるでしょうか。
小説は、人間を理解するためのもの。
10月10日の文学ワイン会「本の音 夜話(ほんのね やわ)」で聞いた、平野さんの言葉です。早苗に対する見方が変化したことも、その言葉の延長線上にあるような気がします。
人間理解も、
児童理解も、
同じ。そう考えると、教員には小説をゆっくりと読むような時間(平野さんいうところのスローリーディングを実践する時間)があってしかるべきだなぁと思います。夏休みと冬休みくらいしか、なかなか小説なんて読めませんから。児童理解のレベルアップもままならず。
早苗の気持ちに加えて、もうひとつ。
映画を観て変化したことがもうひとつあります。それは、小説のその後、或いは映画のその後についての予想です。小説を読んだときには、蒔野と洋子がようやく結ばれるという、収まるべきところに収まったというイメージでしたが、映画を観たことによって、そのイメージは「二人はそれぞれを選ばないかもしれない」という未来予想図に変わりました。二人の子供の姿が、特に蒔野の子供(娘さん)の姿が、小説を読んだときよりもリアルに感じられたからです。洋子に対する気持ちがどうであれ、早苗に対する気持ちがどうであれ、蒔野は我が子のことを第一に考えるのではないか。私もパパなので、そう思ってしまいました。子供を見つめる大人たちの心情を、クライマックスのときの蒔野と洋子は、もう知ってしまっています。
マチネの終わりに。
ホント、よかったなぁ。