田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

猪瀬直樹 著『僕の青春放浪』より。人はだれも自分の青春を救済するために一生を費やす。

 五年過ぎたところで黒帯の試験を受けることになった。娘も同じとき二段の試験を受けた。いっしょに出かけたが、帰りは喧嘩になった。娘だけが受かって、僕が落ちたからである。不機嫌な父親は、娘に「おまえねえ、受かったからってあまりいい気になるなよ」などと張り合ったのだ。「なによ、私は人一倍努力したんだもの、当然よ」と娘がいうのは正しいのである。
 それから半年後、二度目の試験で僕は合格したが、娘のほうは大学受験を目前にして焦っていて、辛そうな顔をしている。
「おまえねえ、弱者の気持ちがわかったろう」というと「うん」とうなずいたが、結局、志望校にめでたく合格した。
(猪瀬直樹『僕の青春放浪』文藝春秋、1998)

 

 こんにちは。高校1年生の長女は昨日まで中間テストで、今日は朝早くから社会科見学(土曜授業)に出かけていきました。グループ毎に現地集合で目的地の公共施設を目指すとのこと。昨夜、殊勝な態度で「パパ、電車賃と、それからお土産買わなくちゃいけないから、お土産代ちょうだい」って。お土産代(?)、何だその社会科見学は(?)と思いつつも、普段のつっけんどんな態度との落差にやられてしまい、ついつい財布の紐が緩んでしまいます。

 それにしても、小学1年生の頃は自宅から学校まで歩いて行くこと自体が「驚き」であり「心配」でもあったのに、今では当たり前のように電車で登下校したり社会科見学に出かけたりしているのだから「驚き」かつ「あっという間」です。昨日、1年生のクラスに補欠で授業に入ったときに、「あぁ、昔はこんなだったなぁ」と、先生と児童ではなく、徐々に「父と娘のコミュニケーション」モードになってしまったのも、最近の娘二人の振る舞いに寂しさを覚えているからかもしれません。

 

 

 子どもの成熟と家族の絆はトレードオフ。
 大人の成熟と青春の長さもトレードオフ。

 

 

 猪瀬直樹さんの『僕の青春放浪』を再読しました。ポスト青春みたいな年齢になってくると「何を読むか」と同じくらい「何を読み返すか」に意識が向くようになります。《人はだれも自分の青春を救済するために一生を費やす――といったのは詩人の佐々木幹郎だった》。『僕の青春放浪』の解説(By 後藤正治さん)にそうありますが、「何を読み返すか」に意識が向くのも、もしかしたら自分の青春を救済するためなのかもしれません。

 

 青春時代にたくさん読んだ、猪瀬さんの本の数々。

 

 最近、猪瀬さんの『公』と『昭和16年夏の敗戦   新版』を読み、そしてブログに書いてツイートしたところ、猪瀬さんご本人にリツイート&フォローしていただけるという僥倖に恵まれました。続けて、ブロガーの本猿さん(id:honzaru)から「こんにちは。猪瀬直樹さんの作品読みたくなりました! 今度読んでみます」というコメントをいただき、何だか私も「再度読んでみます」という気持ちに。それこそ僕の青春放浪です。

 

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 猪瀬直樹 著『僕の青春放浪』の構成は以下の通り。

 

 第Ⅰ部 記憶のなかの旅〈エッセイ〉
 第Ⅱ部 漂泊する心〈ルポタージュ〉
 第Ⅲ部 道標のない街で〈情報処理と批評〉
 解説 後藤正治

 

 本を読むときは書き込みをしたり傍線を引いたり、ページの角を折り曲げて、いわゆるドッグイア(Dog ears、Dog-ear)をつけたりしながら読んでいるのですが、だいぶ日焼けしてしまった『僕の青春放浪』には、書き込みがなく、傍線もなく、あるのはほとんどの頁を折っているのではないかと思われるドッグイアのみ。最初に読んだのは20代の前半くらいでしょうか。ボールペン、持っていなかったのかなぁ。それはともかく、今回読み返していちばん心に残ったのが、冒頭に引用した「父と娘のコミュニケーション」というエッセイで、当時の私、独身だった私にはそのよさがわからなかったのでしょう。ドッグイアはゼロ。最初に読んだときにはおそらくはスルーに近かったエッセイに最も心を奪われるなんて。それこそ「驚き」かつ「あっという間」です。随分と遠いところに来たなぁ。

 

 四十歳になったとき、空手を習うことにした。
 二十代が終わるころ、五十歳ぐらいの仕事上の先輩に、
「君ねえ、二十年、三十年なんてあっという間だったよ」
 と冗談めかして脅されたことがある。
 ほんとうにそうだったのだ。ならば、六十歳、七十歳もすぐにくる。これはいかん、と焦ったとき空手をやろうと決めた。

 

 エッセイ「父と娘のコミュニケーション」の書き出しです。空手をやろうという脈絡のなさに理由を提供しているのが、当時中学1年生で、すでに黒帯をとっていたという娘さんの存在です。コミュニケーションぐらいにはなるなと思って、6年間、娘さんと一緒に日曜空手を続けたとのこと。徹夜が続きよろよろふらふらしていたときも止めなかったとのこと。冒頭の引用は、その6年間の終盤の一節です。佳話だなぁ。私も長女が習っている習字かピアノにチャレンジしようかなぁ。無理だなぁ。空手、或いは合気道でも習わせておけばよかったなぁ。エッセイは次の文章で閉じられます。

 

もっとも、わかり合えたと思ったら、子供は巣立って行くときなのだろう。

 

 巣立ったといえば、三島由紀夫でしょうか。巣立ったというか、旅立ったというか。『僕の青春放浪』の第Ⅲ部の後半には、傑作『ペルソナ   三島由紀夫伝』(猪瀬直樹 著)の圧倒的なおもしろさに触れつつ、三島由紀夫のことが多く書かれています。例えば、

 

三島は才能の人ではあるけれど、それ以上に偉大な生活者だったと思います。

 

 とか、

 

三島といえども、自分の体験と想像力だけで書いているわけではないという点が重要だと思うんです。

 

 とか、

大きくみれば、これが三島の死の遠因だと僕は思います。『鏡子の家』に対する批評家の酷評に、真実、彼は落胆したんですよ。

 

 とか。三島由紀夫にも、猪瀬さんと同じように長女と長男がいました。だからでしょうか。凡人の私から見ると《猪瀬は才能の人ではあるけれど、それ以上に偉大な生活者だったと思います》、《猪瀬といえども、自分の体験と想像力だけで書いているわけではないという点が重要だと思うんです》のほうが腑に落ちます。偉大な生活者は、本当に死んじゃったり、しない。故・深沢七郎さんのエッセイに、妻子がいるのに勝手に死にやがって、許さねーぞ三島由紀夫、というようなことが書かれています。三島由紀夫には、猪瀬さんの「父と娘のコミュニケーション」にあたるようなエッセイはあるのでしょうか。あるなら、読んでみたいなぁ。

 

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 社会科見学から帰ってきた長女が、帰宅早々「疲れた。でも楽しかった」と言って、仮眠をとるために寝てしまいました。成長したなぁ。そう感じるのは、以前に「つまらなかった。疲れた」と言って寝てしまったことが何度かあったからです。もっとも、自分の力で「楽しかった」をたくさんつくり出せるようになったと思ったら、巣立って行くときなのでしょうか。

 

 寂しいなぁ。

 

 でも、楽しかった。

 

 

ペルソナ 三島由紀夫伝 (文春文庫)

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  • 作者:猪瀬 直樹
  • 発売日: 1999/11/10
  • メディア: 文庫
 
鏡子の家 (新潮文庫)

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