田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

深沢七郎 著『生きているのはひまつぶし』より。やりがい詐欺にご用心。

 オレは、武将っていうのはきらいだね。信長だって信玄だって、ああいうのみんな、欲かくために戦争したんだからね。権力と土地と財産がほしくて、戦争やったんだから。
 信長に敗れた信玄の残党が、塩山(山梨)にある恵林寺に逃げ込んで、信長は寺に火をかけてしまう。そのときに快川和尚という人がいて、「心頭滅却すれば火もまた涼し」といって焼け死ぬ話があるけど、快川は心頭滅却したかもしれないけど、他の坊さんにとっちゃ、いい迷惑だったと思うね。もっと煩悩があって、逃げ回ったすえに殺されたんだと思うね。
(深沢七郎『生きているのはひまつぶし』光文社、2010)

 

 こんばんは。心頭滅却しても花粉には勝てず、ここ数日、頭がずっとボーッとしています。先週の木曜日にクラスの子どもたちを引き連れて物部川の河川敷で凧揚げをしたのが原因でしょうか。凧揚げには絶好の風で、子どもたちも喜んでいましたが、花粉にとっても絶好の風だったようです。マスクをしていなかったことが悔やまれます。毎年のことなのにうっかりしていました。とにもかくにも、風に乗って音も立てずにやってきた花粉が体に留まったまま微熱を発生させているようで、武田信玄が快川和尚に書かせたという「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」という言葉は、花粉にこそ当てはまるのではないかと、そう感じています。逃げ回る術もありません。

 

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童心に返って、凧揚げ(2020.2.20)

 

 心頭滅却すれば火もまた涼し。

 

 現代人にとっての花粉と同じくらい、この矜持は迷惑だというのが、姥捨山を題材とした『楢山節考』で知られる、そして『生きているのはひまつぶし』だという、故・深沢七郎さんの考えです。

 

 

 生きているのはひまつぶしなんだから楽しみましょうよ。心頭滅却すれば火もまた涼しだなんて馬鹿なこと言ってないでさ。そこらじゅう新型コロナウイルスだらけかもしれないのに、満員電車に揺られて出勤するなんて、家族にとっちゃ、いい迷惑だよ。適当に休んで、遊んだり食べたり男と女でいちゃいちゃしたりして楽しみましょうよ。深沢七郎さんの『生きているのはひまつぶし』は、要するにそういった本です。発熱しているのに会社に行くなんてバカバカしい。いわんや学校をや。

 

楽しむってことは、私の滅亡教から言ったら最高のことだからね。

 

 だから快川和尚と同じくらい馬鹿なことを言って死んでいった三島由紀夫のことを愛情を込めてぼろくそに書いています。《あんなイヤな野郎、世の中にいないね》って。主義で死んだのではなく、自然淘汰だって。妻子がいるのに勝手に死にやがって、ふざけんなって。処女作の『楢山節考』をべた褒めしてもらった恩があるだけに、いつもテレビ・カメラに映っているように振る舞っていた三島由紀夫が、地に足を着けることなく死んでいったように見えた三島由紀夫が、心底許せなかったのでしょう。

 

それをツバメの巣さえ食わしてやれば、うまいもん食わしてやったと思う、その考えがあさはかなんだ。値段とか名前で、ものごとを判断している。ほんとうの味覚で処理しているんじゃない。

 

 深沢七郎さんが三島由紀夫に中華料理をご馳走になったときのエピソードです。ツバメの巣なんかより、ギョーザのほうがよほどうまいのに。それなのにアイツは本物よりも形式を優先しやがって(💢)。

 

 ツバメの巣よりも、ギョーザ。
 値段や名前よりも、本当の味覚。

 

 つまりは本音。

 

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本音で生きる

 

 以前、勤務校の技術員さんと事務員さんと調理員さんの4人で食事に行ったことがあります。写真はそのときのもの。話していて教員の感覚と違うなぁと思ったのは、技術員さんも事務員さんも調理員さんも、程度の差こそあれ「仕事にそれほどやりがいを求めていない」ということ。だから定時になれば帰るし、体調が悪ければ休む。与えられた時間の中でできることをやる。そんなのは当たり前という感覚でした。きっとツバメの巣よりもギョーザなんだと思います。教員ががんばりすぎるのは「やりがい」を求めるから。でもその「やりがい」は、もしかしたら深沢七郎さんが揶揄した「ツバメの巣」なのかもしれません。ギョーザでいいのに。

 本音といえば、写真家の幡野広志さんの名言を思い出します。昨日、下記のブログの記事を御本人にリツイート(Twitter)していただき、どこまでも飛んでいく凧さながら、アクセスがぐんぐん伸びていってびっくりしました。

 

 

 神様と試練と頬と、それから本音について。以下は、新刊の『なんで僕に聞くんだろう。』より。名言すぎて震えます。

 

神さまは乗り越えられない試練は与えないっていいだす人がいたら、頬をおもいっきりひっぱたいてやりましょう。きっと反対の頬は差し出してきませんから。人の本音ってそういうものです。 

 

 ときに私もそうですが、キリスト教徒でもないのに、教員は「神様は乗り越えられない試練は与えない」と同じようなことを口にしがちです。熱く、そして無責任に。これは快川和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」と同じです。子どもたちにとっちゃ、他の坊さんにとっちゃ、いい迷惑かもしれないのに。教員が目指すべきは、

 

 三島由紀夫よりも深沢七郎さん、
 快川和尚よりも逃げ回る坊さん、

 

 走れメロスではなく、

 

 休めメロスです。

 

 

 

楢山節考 (新潮文庫)

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  • 作者:深沢 七郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1964/08/03
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なんで僕に聞くんだろう。

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  • メディア: 単行本