田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

猪瀬直樹 著『迷路の達人』より。自分が満足するには、自分に出会うしかない、このあたりまえがむずかしい。

 僕は信州の小布施町を、最低でも月に一度は訪れる。そういう習慣を自らに課している。
 小布施は善光寺平の一隅にある古びた小さな町で、栗林と瓦ぶき大壁造りの民家がかつての繁栄をしのばせる。その静けさが気に入っているというのは僕の勝手な思いで、最近は志賀高原帰りの観光客が一服するのに手頃な場所と認め、地元のほうもまたそれを歓迎する算段である。
(猪瀬直樹『迷路の達人』文藝春秋、1993)

 

 こんばんは。昨日、東京の実家に帰って、一足早く母の誕生日を祝ってきました。明日、母は78になります。

 

 もう78よ。

 

 母はそう言いますが、「まだ78」という気持ちでいてほしいと願うのが息子です。だから母よりも2歳年下で、今年の11月に76になる作家&参議院議員の猪瀬直樹さんを引き合いにして、

 

 猪瀬さんは「まだ76」って考えているはず。

 

 そう伝えました。そうでなければ75にして初めて国政にチャレンジ(!)なんてことはしないはずですから。母だって、人生これから。そんな息子の思惑をよそに、横から口を挟んでくるのが父です。母と同い年の父は、息子が「作家・猪瀬直樹」にはまりまくっているのをあまりよく思っていないようで、それこそひと昔前のワイドショー的な猪瀬像をぶつけてきたりします。そこで提案です。

 

 これ、短いから読んでみて。

 

 実家に帰る途中、電車の中で読んでいた猪瀬さんの『迷路の達人』の中から、父にいちばん響くであろう「橋川文三先生との思い出」(87.3)というエッセイを指定し、読んでもらいました。橋川文三先生というのは、猪瀬さんが大学院生のときに師事していた先生のことで、猪瀬さん曰く《橋川先生に出会わなかったら、たぶん僕は『ミカドの肖像』を書こうとはしなかっただろう》とのこと。その出会いがなかったら、もしかしたら東京五輪だってなかったかもしれません。

 

 桜の季節だった。
 1983年3月。都心の仕事場から赤いスクーターに乗り、神田の駿河台を目指した。
 前輪の上に載せた籠には、朝日新聞社から出版したばかりの『天皇の影法師』(現、新潮文庫)が入っていた。一刻も早く、橋川文三先生にお見せしたかった。8年ぶりの再会である。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 目論見通りです。父の目が変わりました。わずか5ページのエッセイですが、ゴーギャン風にいえば、迷路の達人こと作家・猪瀬直樹が「どこから来たのか、何者か、どこへ行くのか」がよくわかるんです。別の言い方をすると、人生という「迷路」の達人になるプロセスがよくわかるんです。そして何より、

 

 いい文章だ。

 

 故・橋川文三さんが生きていたら、おそらくはそう評したことでしょう。文章はいい、というのが橋川先生と猪瀬さんの合言葉だったそうですから。ほんと、いい文章なんです。東京都知事を辞職したときのイメージでしか猪瀬さんのことを知らない人たちには是非読んでほしい。母にも勧めました。母の目も変わって、

 

「この本、置いてきなさい」とのこと。

 

 帰りの電車で続きを読みたかったので、次に来るときに持ってくるよ、と伝えつつ、母には冒頭に引用した「北斎の旅、僕の旅」(87.8)というエッセイも読んでもらいました。たった3ページの短いエッセイですが、これがまたいいんです。タイムリーだったんです。泣けてくるんです。なぜ猪瀬さんが《信州の小布施町を、最低でも月に一度は訪れる。そういう習慣を自らに課して》いたのか、

 

 わかりますか? 

 

 印半纏に麻裏草履、長い杖をついて83歳の葛飾北斎が小布施の豪商高井鴻山のもとを突然訪れたのは、天保13(1842)年であった。よほど居心地がよかったのか、その後わずかの期間に小布施を4回訪問している。4回目は88歳のときで付近の岩松院という福島正則ゆかりの寺の大広間の天井に鳳凰の画を残した。
 路銀いくばくもなく、90歳に手の届こうとしている貧しい身なりの老人が、はるか江戸から碓氷峠の急坂を登るだけでなく遠い道程を徒歩で幾度も往復した。いまとなっては想像しにくい光景である。

 

 恐るべし葛飾北斎。いまとなっては想像しにくい光景にリアリティーをもたせるべく、僕こと猪瀬さんが《こうして、僕はこの3、4年間に小布施を頻繁に訪れ、あわただしく去った》わけではありません。猪瀬さんが、北斎の旅に自身の旅をなぞらえながら小布施に通ったのは、病床の母を見舞うためです。

 

そこに僕の母が、薄い意識のまま命を存えている。

 

 泣けます。

 

 そんな泣けるエッセイを含めて、猪瀬さんの『迷路の達人』には、ルポタージュやブックレビューなど、93年以前に書かれた短い文章が100以上収められいます。著者曰く《禁を犯して自分自身についても触れた》という、作家・猪瀬直樹のファンにとってはたまらなく嬉しい、全543頁の分厚い一冊。

 

 

 目次は以下。

 

 第Ⅰ部 記憶のなかの旅(エッセイ)
 第Ⅱ部 漂泊する心(ルポタージュ)
 第Ⅲ部 道標のない街で(情報処理と批評)
 第Ⅳ部 事実そして言葉(ノンフィクション作法)
 第Ⅴ部 仮説の愉しみ(ブックレビュー)

 

 

 実家からの帰路、駅構内のベックスコーヒーにて。ちなみに「迷路の達人?」(92.11)は第Ⅰ部に収録されています。本のタイトルと違って「?」がついているのは、当時はまだ達人ではなかったという意味でしょう。今はもう、押しも押されもせぬ達人です。最後に猪瀬さんの母校である信州大学教育学部附属長野小学校の特色について、ひとつ。

 

 だがそうした伝統は多少とも残されており、おかげで僕は小学校の六年間、ついに通知表をもらう苦痛から免れた。「成績」という言葉を知らず、人と人との関係をそういう尺度で考える習慣を持たなかった子ども時代を過ごすことで、モノ書きとして必要な財産のひとつをいただいた。

 

 第Ⅴ部の最後に載っている「小学生が書いた卒論」(87.7)より。そうした伝統というのは総合学習のことです。総合重視、かつ通知表は作らない。大賛成です。人生という複雑な迷路に単一の尺度は必要ありません。通知表を作っている時間があったら、この猪瀬直樹エッセイ全集成を読む時間にあてた方がよほどいい。教師として必要な財産のひとつになりますから。

 

 母に感謝しつつ。

 

 おやすみなさい。