田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、旅行、映画」

日垣隆 著『信州教育解体新書』より。外から見ると、内部であたりまえと思っていることも、相対化して眺めることができる。

 授業が始まってからが、また驚いた。四〇人ほどの参観者たちが、いっせいにメモをとりだしたのだ。ものすごく熱心にメモの手を走らせる。どうしてあんなにいっぱい、メモすることが存在するのだろうか。たいした授業では決してない。マンガでも描いているのかもしれない。一時間くらいのあんな授業のポイントくらい、覚えられないのだろうか。そうか、講演会などでも、せっせとメモをしている姿を見かけるけれど、あれはきっと学校の先生か、でなければカルチャーおばさんだ。そうに決まっている。
(日垣隆『信州教育解体新書』信濃毎日新聞社、1991)

 

 こんばんは。15時15分に子どもたちを帰してからすぐに教室と流し場の消毒作業をして15時30分からは会議その1。15時45分に会議が終わってそこから45分の休憩時間。NHKの報道によると法律によって定められているはずのこの休憩時間は全国平均1分(小学校)しかないとのことでそれはおそらく本当というか実際は0分で、本来であれば英気と免疫力を養うはずの45分のあいだに今日のテストの採点と細々した仕事と明日の授業準備などを小説のタイトルでいうところの猛スピードで母は、ではなく僕は。途中、保護者から「連絡張に書き忘れましたが、明日は法事で休みます」なんて電話がかかってきて仕事を中断されてイライラするももちろん法律に違反しながら休みなく働き続けているなんてことはおくびにも出さずに明るくまっすぐちょっとだけビジネスライクに対応。16時30分から会議その2が始まって15分後に終わりそのまま脇目も振らずに定時退勤。6時間分の授業準備なんて終わるはずもなく持ち帰り仕事にするのも本質的には社会悪だから明日の授業も経験と勘とアドリブで勝負。日垣さんでなくてもこう言いたくなります。

 

 恐ろしい世界だ。

  

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夏、信州は上高地にて(2012)

 

 恐ろしい世界とは縁遠いところにありそうな信州も、こと学校教育に関しては、見る人が見れば《恐ろしい世界だ》ったようです。日垣隆さんの『信州教育解体新書』を読むと、そのことがよくわかります。曰く《外から見ると、内部であたりまえと思っていることも、相対化して眺めることができる》云々。休憩時間がゼロだったり、授業の準備時間(勤務時間内)がゼロだったりする、現在の学校現場の「あたりまえ」は、外から見るとどう映るのでしょうか。

  

信州教育解体新書

信州教育解体新書

 

 

 日垣隆さんの『信州教育解体新書』を再読しました。長野県長野市で生まれ育った著者による、教育県信州の解体新書です。

 

 廃藩置県が断行されたのは一八七一(明治四)年だが、ほぼ現在の都道府県の形になったのは一八八八(明治二一)年のことである。そして、現在と同じエリアをもつ長野県が誕生する一八六七(明治九)年に、小学校の就学率が全国平均を二倍近くも上回って六三・二四%という日本一の教育熱を示したのだった。

 

 Wikipedia の「信濃教育会」には《信州教育とは、明治15年に県立長野師範校長として赴任した 能勢栄 が提唱した概念で、長野県における教育が他府県のそれよりも優れた特質をもつとの評価を与えるものであった》とあります。その信州教育が、どうやら低迷しているらしい。その低迷の原因を紐解くことができれば、日本の教育を豊かにするためのヒントにもなるかもしれない。『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』や『学校がアホらしいキミへ』、『父親のすすめ』などの著書があり、教育に一家言をもっている日垣隆さんが解体したくなるのも当然です。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 冒頭の引用は、日垣さんが中学校の研究授業に参加したときの「驚き」です。今でもそうですよね。指導主事なんて来た日には、そのメモのとりっぷりに、カルチャーおばさんもびっくりです。いっとき本屋で平積みになっていた『メモの魔力』の前田裕二さんだってびっくりするかもしれません。

 

 それにしても、この分厚い教案は何だろう。百歩ゆずって、毎時間毎時間の授業が研究授業のときほどに準備されたものであれば、まだいい。だが、そんなことはできない相談だろう。なぜ、もっと自然体でやろうとしないのか。非日常をいくら研究しても、日常に変化がなければ、それは単なる暇つぶしだ。その暇つぶしのために、普段の授業が犠牲にされ、なおかつ教師は子どもと接する時間までも惜しんで教案づくりに埋没させられる。この三年間で、研究授業の準備中に命を落とした教諭が、長野県下で僕が直接に取材したものだけで二件ある。尋常ではない。

 

 分厚い教案っていうのは指導案(細案)のことですね。A4一枚にすればいいんですよね。表に略案を書いて、裏に事後の協議会の記録と授業者の振り返りを載せる。それで十分。サルでもできる働き方改革。学校を移るたびに、或いは県をまたぐたびにそう主張し、変えてきましたが、異動するとまた悪魔的な指導案が提示されて、シーシュポスの神話の世界にでも迷い込んだ気になります。ならないけど。

 細案を書いて非日常の授業を公開するよりも、略案を書いて日常+α くらいの授業をカジュアルに見合った方がよほどいい。本年度から残業規制が入ってくるのだから、法律的にも略案の方がいい。指導案検討会なんて要らない。授業くらい好きにやらせろ。いいたいことは授業の後で。そもそも画一的なスタイルの授業を研究すること自体が間違っているかもしれないのに。変えるならコロナ禍のいまですよ。

 

それはおそらく「独学」を基軸に据えることをおいて、ほかにはあるまい。

 

 研究授業ひとつとっても、外から見ると恐ろしい世界であり、尋常ではないことを内部の先生たちは「あたりまえ」と思ってやっている。低迷するのはそれこそ「あたりまえ」だ。だから信州教育を軌道修正するためには、或いは日本の教育を軌道修正するためには、独学を基軸に据えるしかない。独学云々のところに論理の飛躍を感じた方は『信州教育解体新書』をぜひ読んでみてください。再読してピンときたのは、日垣さんいうところの「独学」と現在のコロナ禍(ソーシャル・ディスタンス等)には親和性があるということ。独学と研究授業には親和性がないということ。ちなみに独学というのは外山滋比古さんいうところの飛行機人間と同意です。

 

 飛行機人間を基軸に据える。

  

www.countryteacher.tokyo

 

 研究授業ではないと思うんですよね、飛行機人間をつくるのは。研究授業でつくっているのは、どちらかというと先生の指示がないと飛べないグライダー人間ですよね。だから従来型の授業の在り方を強化するようなガラパゴス的指導案に時間をかけている場合ではないと思うんですよね。研究や研修のこと、いろいろと見直したいところです。

 

 シーシュポスの神話。

 

 終わらせたい。

 

 

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