久美子ねえちゃんは、二年後に別の男のひとと結婚をした。今度のひとはおじさんやおばさんにすぐに気に入られて、少年の両親も「久美子ちゃんもこれで幸せになれるよ」と喜んでいた。でも、そのひとは、少年の歳の離れたお兄さんにはならなかった。少年はもう中学生で、久美子ねえちゃんに会っても、「こんにちは」しか言わなくなっていた。
(重松清『小学五年生』文藝春秋、2009)
こんばんは。マジックアワーって、きれいですよね。夕方のしっぽが残っているような日没前の薄明かりの時間帯のことです。その美しさを前に、きっと誰かが名前をつけたくなったのでしょう。5年生の国語の教科書に載っている、蜂飼耳さんの『なまえつけてよ』と同じです。そうだ、名前、つけてよ。ちなみにこのマジックアワーという言葉は、三谷幸喜監督の映画『ザ・マジックアワー』を観たときにはじめて知りました。タイトル以外は何も覚えていないという魔法のような映画です。
三谷さんは、この映画のタイトルを、誰にでもある「人生で最も輝く瞬間」を意味する言葉として使っていました。重松清さんが『小学五年生』という小説のタイトルに込めた意味も、もしかしたら同じかもしれません。
クラスの子に「先生も読んでみてください」と勧められ、重松清さんの『小学五年生』を読みました。臨時休校中の課題としていた「重松清さんの本をできるだけたくさん読むこと」のブーメランです。収録されている17篇のショートストーリーを読んで、クラスの子どもたちへの見方がちょっと変わりました。変わったというか、思い出したというか、頭の中にあったイメージがリアルになりました。彼ら彼女らは、もう子どもではない。かといって、大人でもない。昼と夜でいうところのマジックアワーにあたるのが、子どもと大人でいうところの小学五年生だからです。四年生でも六年生でもなく、五年生。
少年は、小学五年生だった。
冒頭に引用した「カンダさん」という一篇には、一人っ子の少年と、カンダさんという大人との出会いと別れが描かれています。隣の家の久美子ねえちゃんに婚約者ができた。カンダさんだ。カンダさんには優しすぎるところがあって、つまり優柔不断で、いわゆる大人受けはしないけれど、少年には実の兄のように優しい。一緒にプラモデルを作ってくれるし、雪玉を投げたら逃げ回って遊んでくれる。こんな大人は初めて。
でも、結局、優柔不断なカンダさんの性格が災いして、久美子ねえちゃんとの婚約はダメになってしまいます。さよならを言いにきたカンダさんに「プラモ、どこまで進んだ?」と訊かれた少年は、そっけなく「壊した」と答えます。そして去りゆくカンダさんの背中に泥玉を投げます。もう無邪気ではいられない少年のもどかしさがよく現れているシーンで、子どもでも大人でもない小学五年生の葛藤に、ちょっと泣けます。
振り向いたカンダさんは怒らなかった。そのかわり、雪合戦のときのように逃げてもくれなかった。じゃあな、と笑って、また歩きだして、ほどなく背中は夕闇に消えた。
マジックアワーです。
もうひとつ。「プラネタリウム」という一篇には、少年のあわい恋心が描かれています。市の教育センター主催の「子ども天文教室」の五年生クラスに、友達の裏切りで一人で参加することになった少年。他の参加者はみな二人組や三人組で来ていて楽しそう。見知った顔がなく、どきどきしていたところ、その教室には同じく一人で来ていた別の学校の少女がいて、少年と少女はペアを組むことに。はじめはギクシャクしていたものの、星座盤の使い方を習ったときに誕生日がたまたま同じだったことを知って、ビッグバン。吊り橋効果も手伝って、ベガとアルタイル的に距離を縮めていく二人。もしも少年が大人だったら、この後のプラネタリウムで一気に勝負をかけるところですが、そこは小学五年生です。手を握ることすらできません。って、当たり前ですね。いやだな、大人って。汚れちまった悲しみに。
呼び止めて、駆け寄って、足を止めて振り向いた女の子に……想像だけは先へ進んでいくのに、声が出ない。
女の子の後ろ姿が、消えた。
マジックアワーです。
どの短篇にも共通しているのは、マジックアワーと同様のあわさとはかなさです。あわいから、はかないから、小学五年生は美しい。あっという間に「こんにちは」しか言わなくなるから、小学五年生は美しい。重松さんは文庫版のためのあとがきに《いつの時代でも、どこの街でも、小学五年生の少年のいる風景は、決してバラ色に光り輝くときばかりではないにしても、それでもやはり、かけがえのない美しさを持っていてほしいと願っているし、持っているはずだ、と信じている》と書いています。持っている、はずだ φ(..)
かけがえのない美しさに。
明日も出逢えますように。