ここに愛し合う二人の男女がいて、幸せに、陽気に暮らしており、彼らの一人、もしくは二人ともが本当に優れた仕事をしていると、人々は、あたかも渡り鳥が夜間、強力な灯台に引き寄せられるように、その二人に確実に引き寄せられるものである。もしその二人の絆が灯台のように堅固だったら、渡り鳥の側は別にして、被害はほとんどないだろう。だが、自分たちの幸福な暮らしぶりと仕事ぶりで他者を引きつけるカップルは、えてして、経験に乏しいものなのだ。他者に蹂躙されずにうまく身をかわす術を、二人はまだ身につけていない。
(アーネスト ・ヘミングウェイ『移動祝祭日』新潮文庫、2009)
こんばんは。 昨日、オリヴィエ・アサイヤス監督の『冬時間のパリ』を観てきました。ヘミングウェイの『移動祝祭日』が、その一部とはいえ、パリを舞台にした若者の「愛」を描いた作品だとしたら、アサイヤス監督の『冬時間のパリ』は、パリを舞台にした中年の「愛」を描いた作品です。中年ということもあって、映画の芯にはちょっとした不道徳が横たわっていますが、「不道徳を通して語ることの価値」に気づかせてくれる「観てよかった」映画です。
不道徳を通して語ることの価値。
かつて『五体不満足』の乙武洋匡さんが、不道徳をたたかれて世間に蹂躙されたことがありました。蹂躙されたのは、『移動祝祭日』に登場する若きヘミングウェイや若きフィッツジェラルドのように「経験に乏しかった」からでも「うまく身をかわす術をまだ身につけていなかった」からでもありません。乙武さんの不道徳を「よし」とするわけではもちろんありませんが、彼がくそみそに蹂躙されたのは、おそらくそこがトーキョーだったからでしょう。もしもそこがパリだったら、乙武さんの家族がバラバラにされるようなことはなかったように思います。フランスの大統領だったミッテラン氏の有名なエピソードを引けば、「エアロール?」のひとことで済んだ話です。
野暮な記者「婚外子の娘さんがいるようですが?」
粋な大統領「エアロール?」
エアロール(?)とは、それがどうかしましたか(?)という意味で、1981年の大統領就任直後の記者団との朝食会の席上でミッテラン氏が口にしたとされる言葉です。さすがフランス。この言葉、教室でもときどき使います。糾弾口調で子ども曰く「先生、~さんがまだ習っていない漢字を使っています!」云々。
「エアロール?」
ほっとけ、という話です。習っていない漢字は使ってはいけないって、いったいその「道徳」は誰が決めたのかな? たぶん以前の担任だと思うけど、そのことについて、自分の頭でよく考えたことはあるのかな?
事ほどさように、道徳というのは、ある時代、ある場所、ある共同体に限定された価値でしかありません。哲学者の苫野一徳さんは、著書『ほんとうの道徳』の中で《道徳とは、絶対に正しい価値観ではなく、ある限定された ‘‘習俗の価値” である――》と書いています。絶対に正しい道徳なんて「ない」ということです。絶対に正しい不道徳もありません。だから「誰かの頭」ではなく「自分の頭」で考える習慣をつくっていかないと、野暮なメディアや野暮な大人に知らず知らずのうちに同調してしまうことになります。
乙武さんの「蹂躙」がよい例です。
話を戻せば、ほっといた結果、乙武さんが改心して家族に打ち明け話をする日が来るかもしれません。乙武さんの不道徳は「NG」かもしれないものの、乙武さんの改心とともに、家族がその「NG」を受け入れる日が来るかもしれません。その可能性を赤の他人が潰さないこと。ルキノ・ヴィスコンティの『山猫』にあるように「永遠に変わらないためには、変わり続けなければならない」からです。同じような話が出てくる映画『冬時間のパリ』の中でも、この言葉が象徴的に使われ、不道徳を通して語ることの価値が示されています。
「その言葉が書かれたのは半世紀も前のことだが、今の時代の方が人々によく響くようだ」
恋人が口にしたルキノ・ヴィスコンティの引用を受けて、映画の登場人物のひとりが「最近、その言葉をよく耳にする」と言って、そう返します。めちゃくちゃカッコいいシーンです。別れのシーンなのですが、中年だけあって(?)、うまく身をかわす術ではなく「永遠に変わらないために、変わり続ける」術を身につけています。
今は人生100年時代。
永遠に変わらないためには、変わり続けなければいけません。
もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。
『移動祝祭日』のエピグラフに書かれている一節です。『冬時代のパリ』& ルキノ・ヴィスコンティの言葉と重ねると、パリが永遠に変わらないのは、パリが変わり続けているからであり、移動祝祭日だからだ、と読めます。
変わり続けること。
移動し続けること。
変わらないために。