田舎教師ときどき都会教師

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サマセット・モーム 著『月と六ペンス』より。何に対して誠実であるべきか。

「じゃあ、どうして奥さまを捨てたんです?」
「絵を描くためだ」
 わたしは、目を丸くして相手の顔をみた。意味がわからなかったのだ。この男は頭がおかしいのだろうかと思った。覚えておいてほしいが、わたしはまだ若かった。ストリックランドがただの中年男にしかみえていなかった。わたしはあっけに取られ、予測していた答えや問いはみんな忘れてしまった。
「しかし、もう四十じゃないですか」
「だから、いましかないと思ったんだ」
(サマセット・モーム『月と六ペンス』新潮文庫、2014)

 

 おはようございます。四十どころではなく、もう八十五になる画家さんから電話がかかってきて、原画を送ってくれるって言うんですよね。昨夜の話です。体力的にも精神的にも、だいぶ弱ってきているのでしょう。心配です。もしかしたらチャールズ・ストリックランドの絵がそうであったように、10年後、20年後にとんでもない値段がつくかもしれないのに。当時、すでに六十近かったでしょうか。カルカッタのゲストハウスで出会ったその画家さんも、ストリックランドと同様に、家族よりも「絵を描く」を優先し、長い旅路の途中にいました。きっと、いましかないと思っていたのでしょう。

 

 描かずに死んではいけない。

 

 

 読まずに死んではいけない。

 

 

 サマセット・モームの『月と六ペンス』を読みました。作家である主人公の視点から、天才画家チャールズ・ストリックランドの数奇な人生を描いた歴史的大ベストセラーです。タイトルは知っていましたが、その他の多くの古典と同じように、読んだことはありませんでした。内容も知りませんでした。ほんと、勧めてくれた友人に感謝です。

 

 また、飲みましょう。

 

 読み始めてすぐにストリックランドという画家は実在した人物なのか(?)という問いが頭に浮かびました。それはちょうど村上春樹さんの処女作である『風の歌を聴け』に登場する作家のデレク・ハートフィールドがそうであったように。魅力的かつ思わせぶりに描かれているんですよね。曰く《ストリックランドが死んで四年後、モーリス・ユレが「メルキュール・ド・フランス」誌に寄せたエッセイが、忘れられかけていたこの無名画家に光を当てた。それが出たとたん、世の批評家たちはユレを真似て、似たようなストリックランド論を次つぎに書きはじめた》云々。巧すぎます。検索したくなります。

 

 で、検索。

 

 すぐにヒットしました。ストリックランドのモデルはポール・ゴーギャンです。なるほど。もしかしたら、本好きにとっては、あるいは本好きではなくても、それは常識だったのかもしれません。勉強不足が身に沁みます。ちなみに《文章は読み辛く、ストーリーは出鱈目で、テーマは稚拙だった。しかしそれにもかかわらず、彼は文章を武器として闘うことができる数少ない非凡な作家の一人であった。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、そういった彼の同時代人の作家と伍しても、ハートフィールドのその戦闘的な姿勢は決して劣るものではないだろう、と僕は思う》と描写されたデレク・ハートフィールドは架空の人物でした。

 

 とはいえ、これは小説です。

 

 史実と勘違いしてはいけません。もしも史実だったとしたら、ゴーギャンってもしかしたら重度の発達障害か(?)と思ってしまいますから。さて、そのゴーギャンは、否、ストリックランドは、どんな数奇な人生を送ったのでしょうか。

 

 残念ながら、教えられません。

 

 あまりにも名作だからです。ぜひ手にとって読んでみてください。とはいえ、何も紹介しないのもあれなので、冒頭に引用した場面の前後だけをパーシャルに紹介します。

 冒頭の引用は、語り手である主人公の作家が、ロンドンに住んでいるストリックランド夫人、つまり捨てられた奥さまに頼まれて、ある日突然いなくなってしまったストリックランドをわざわさパリまで行って探し出し、その理由を問い詰めているシーンの一部です。

 

 以下もその一部。

 

「しかし、お子さんたちが可愛くないんですか? とてもいい子じゃありませんか。これっきり縁を切るつもりですか?」
「小さいときは可愛かったが、大きくなってからはどうでもいい」
「あなたは人でなしだ」
「たしかに」
「少しは恥ずかしいと思わないんですか?」
「ああ」

 

「どうでもいい」なんて言葉を目にすると、職業柄オートマティックにこう思ってしまいます。発達障害なのかもしれないって。次に出てくる「知ったことか」もそう。そういった類いの子にしばしば言われたことがあるなって。小学校の教員という職業ゆえの見方・考え方です。

 

「ろくでなしの人非人と思われてもいいんですね? 奥さまとお子さんが物乞いをするはめになってもいいんですね?」
「知ったことか」
 わたしは次にいう言葉に重みを持たせようと、少し黙った。そして一語一語ゆっくりいった。
「あなたは最低の男だ」
「これで、いいたいことはみんないってしまっただろう。夕食を食いにいこう」

 

 最後のところがいいですよね。村上春樹さんの小説に出てくる会話文とはまた違った趣のよさがあります。憎めないし。

 

 そうです、憎めないんです。

 

 発達障害の子と同じように、めちゃくちゃなところはあるけれど、そのめちゃくちゃさゆえなのか、憎めないんです。

 ストリックランドは「絵を描きたい」という自分の夢というか理想に対して狂ったように「誠実」なんですよね。小学5年生の道徳の教材文「手品師」(価値項目 : 誠実)で例えれば、「おじさん、あしたも来てくれる?」という男の子に対して「ああ、来るともさ」と約束し、その約束を誠実に守るのが手品師で、その約束を破り、急遽舞い込んだ大劇場の仕事(夢につながる仕事)に行ってしまうのが絵師(?)のストリックランドというわけです。

 

 何に対して誠実であるべきか。

 

 美や狂気を象徴している「月」か、それとも世俗の安っぽさや日常を象徴すしている「六ペンス」か。答えは風に吹かれている。だから、

 

 風の歌を聴け。

 

 行ってきます。