田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

ダニエル・キイス 著『アルジャーノンに花束を』より。これを読まないまま終わる人生を歩んではいけない。

 医者には向いていないと自覚し、作家になろうと思い定め、生活費を得るために教師の資格をとって教職についた。知的障害児の教室で教える仕事も引き受けて、この教室で、あの少年と出会った。授業のあと、少年はキイス先生のもとにやってくるとこう言った。「先生、ぼくは利口になりたい。勉強して頭がよくなったら、ふつうのクラスに行けますか」この言葉が『アルジャーノンに花束を』をこの世に送り出す大きなステップとなった。
(ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』ハヤカワ文庫、2015)

 

 こんばんは。引用は、訳者である小尾芙佐さんのあとがきより。教員だったんですね、ダニエル・キイス(1927-2014)は。読み始めたときも、読んでいる途中も、読み終えてからも、教員こそが読むべき一冊だ(!)と感じていたので、俄然、親近感が湧きます。Wikipediaで調べたところ《ニューヨークの高校で国語教師を務めつつ、定時制で英米文学を学び、週末には小説を書いていた。最終的に英米文学の修士号を得ている》とあって、

 

 よい。

 

 特に《週末には小説を書いていた》というところが、よい。手に取ってよかった。本当によかった。大切な人に贈りたくなるくらいよかった。一週間くらい前にサマセット・モームの『月と六ペンス』を読んだときにもそう思いましたが、あやうく読まないまま一生を終えるところでした。やはり「名前は知っているけれど、読んだことはない」という古典は侮れません。10冊に1冊くらいは、そういった本を読んだ方が、

 

 よい。

 

 

 クラスの子どもたち(小学5年生)にもそのヤバさを知ってほしかったので、思いっきりネタバレするかたちでその内容を語ってしまいました。だって、語り手である主人公のチャーリイー・ゴードンが、こんなにも大切なことを言うんです。曰く《「知能だけではなんの意味もないことをぼくは学んだ。あんたがたの大学では、知能や教育や知識が、偉大な偶像になっている。でもぼくは知ったんです、あんたがたが見逃しているものを。人間的な愛情の裏打ちのない知能や教育なんてなんの値打ちもないってことをです」》云々。伝えずにはいられません。チャーリイーは、いかにしてこの大切なことを学んだのか。

 

 以下、ネタバレあり。

 

 

 ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を読みました。32歳になっても《ぼくの年わ32さいでらい月にたんじょお日がくる》というような文章しか書けないチャーリイー・ゴードンが、知能指数を高めるための手術を受けた結果、天才になる。そういったSF小説です。知的に劣っていた人間が、知的に優れた人間になると、どうなるのか。

 

 こうなります。

 

 私は天才なのか? そうは思わない。とにかくまだ今は。バートがいつも言うように、教育学の婉曲語法を借りれば、私は特別なのである――この特別という用語は授けられたものと奪われたもの(利発と知的障害の意味に使われている)という忌わしいレッテルを避けるために用いられる民主的用語であって、特別が特定の人間に特定の意味をもつようになれば、彼らはまたその言い方を変えるだろう。つまりこういう考えらしい。それが特定の人間に特定の意味をもたない限りはその表現を用いるべし。特別とは、スペクトルの両端を言うのであり、したがって私は生涯を通じて特別であったというわけだ。

 

 文章の「見た目」が変わるんですよね、手術前と手術後とでは。助詞の「わ」が「は」になり、仮名が漢字になり、詩人のように優雅に句読点を打つようになり。それも違和感が出ないように、少しずつ、少しずつ。文章の「見た目」の変化を通して、チャーリイーが徐々に、そして急速に賢くなっていく様子がわかるというわけです。訳者あとがきに《あまた寄せられた日本の読者からの手紙に感動した著者が、この文庫版に「日本語版文庫への序文」として日本の読者に熱いメッセージを寄せて下さった》とありますが、それは間違いなく小尾芙佐さんの力に負うところが大きいでしょう。

 

 訳者として、新しい読者の方たちに伝えたいのは、冒頭の主人公チャーリイーのたどたどしい文章を、どうか一字一字たどっていってください、ということだ。そうすれば、いつしか見たこともない新しい世界が垣間見えてくるだろう。

 

 賢くなったチャーリイーは、見たこともない新しい世界で、さまざまなことに気付きます。友達だと思っていた職場の同僚たちが、実は自分のことを笑いものにしていたこと。手術をしてくれた大学の先生たちが、承認欲求にまみれた凡人にすぎなかったこと。そして、この手術の効果が、長い年月にわたって持続するかどうかはまだ誰にもわかっていないということ。

 

 わかっていないなら、自分で研究すればいい。

 

 天才はそう考え、その成果は、論文『アルジャーノン・ゴードン効果 ―― 増大された知能の構造と機能の研究』として発表されます。ゴードンはチャーリイーの性、そしてアルジャーノンは、チャーリイーと同じ手術を受け、賢くなった実験用のねずみの名前です。チャーリイーとアルジャーノンの関係については、ぜひ読んで泣いてください。ラストの2行は、

 

 特に、泣けます。

 

 論文の成果についてはここに書きません。論文発表後の展開は、映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(デヴィッド・フィンチャー監督作品)を想起するものでした。生まれたときは老人で、年を重ねるごとに若返る人生を与えられた男を描いた映画です。映画の中で主演のブラッド・ピットとケイト・ブランシェットが恋に落ちたように、物語の中でチャーリイーも恋に落ちます。老人から青年に、低IQから高IQに。そして青年から幼児に、

 

 高IQから……。

 

 最後に、クラスの子どもたちに紹介したエピソードをひとつ。賢くなったチャーリイーが、かつての自分を思わせるような少年(知的障害児)に出会ったときの話です。食堂で皿洗いをしていた少年が皿を落とし、その場にいた人たちの笑いものになっているんですよね。笑われているということすら理解できず、少年はニタニタと曖昧に笑うばかり。チャーリイーは叫びます。

 

「だまれ! この子をほおっておけ!」って。

 

 まともな感情や分別をもっている人々が、生まれつき手足や眼の不自由な連中をからかったりはしない人々が、生まれつき知能の低い人間を平気で虐待するのはまことに奇妙である。自分が、ほんの少し前まで ―― あの少年のように ―― 愚かしい道化を演じていたことを思うと、怒りがこみあげてくる。
 そうして私はほとんど忘れていた。
 人々が私を笑いものにしていたことを知ったのはつい最近のことだ。それなのに、知らぬ間に私は私自身を笑っている連中の仲間に加わっていた。そのことが何よりも私を傷つけた。

 

ガトーショコラに花束を(2024.2.24)

 

 勉強ができるとか、勉強ができないとか、賢いとか、賢くないとか、そんなことよりも大事なことは何ですかって、優劣の彼方で、子どもたちに問い続けたい。そう思えた小説でした。それこそが世界平和への第一歩だからです。

 

 アルジャーノンに花束を。

 

 おやすみなさい。