田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

佐藤学 著『第四次産業革命と教育の未来』より。文科省 VS. 経産省。学びの道具 VS. 教える道具。

 調査結果は、読解リテラシーにおいても数学リテラシーにおいても、学校でコンピュータの活用時間が長時間になると、学力は低くなることを示しています。
(中略)
 この調査結果について、私はもう一つ別の解釈を持っています。現在のコンピュータの活用の仕方がまちがっているという解釈です。現在、普及しているICT教育のプログラムのほとんどは、コンピュータを「教える道具」として活用するプログラムです。しかし、コンピュータは「教える道具」としてではなく、「学びの道具(思考と表現の道具)」として活用した時、優れた教育効果を発揮します。コンピュータを「教える道具」ではなく「学びの道具」あるいは「探求と協同の道具」として活用する方途を探索する必要があります。
(佐藤学『第四次産業革命と教育の未来』岩波書店、2021)

 

 おはようございます。6年生だと例えば「平安時代の文化について興味をもったことを調べ、Googleスライドにまとめて発表しよう」と子どもたちに投げかければ、あとは勝手に探求し、緩やかに協同し、1週間後には見事なプレゼンを披露してくれます。仮名文字について調べた子もいれば、源氏物語について調べた子もいる。みんな違って、みんないい。もちろんそれなりの学級づくりとそれなりの学習履歴とそれなりの単元計画が必要ですが、一人一台端末を「学びの道具(思考と表現の道具)」として活用すれば、確かに優れた教育効果を発揮します。現場の教員がナラティブとして実感していることを、日本一の教育学者がエビデンスとして裏付けているのだから間違いありません。

 

 子どもたちは楽しそう。担任は楽そう。

 

 主役は子どもで、担任は脇役。一人ひとりがコンピュータを「学びの道具」として使っている教室を覗いたら、子どもたちと担任の様子は、そんなふうに映るのではないでしょうか。それはきっと、佐藤学さんが推進してきた「学びの共同体の学校改革」を実践している学校の教室風景と同じです。

 

 

 佐藤学さんの『第四次産業革命と教育の未来』を読みました。第四次産業革命がもたらす資本主義の変貌とその教育における現れという「大局」を学ぶことができる一冊です。同時に、冒頭の引用にもあるように、教室での実践を水路付けてくれる一冊でもあります。同じ岩波ブックレットから出ている同著者の『「学び」から逃走する子どもたち』や『学校を改革する』と同じように、教育関係者にとっては「必読」といえる一冊なのではないでしょうか。下手な研修をするよりもこれらの本を読んだ方がよほどためになります。

 

 

 副題は「ポストコロナ時代のICT教育」。はじめにとおわりにの間にある目次は、以下。

 
 1 第四次産業革命による社会の変化
 2 新型コロナ・パンデミックとICT教育
 3 巨大化するグローバル教育市場
 4「人材=人的資本」の変化
 5 ICT教育の現在と未来
 6 学びのイノベーション
 7 改革の展望

 タイトルにある「第四次産業革命」は、2016年の世界経済フォーラム(ダボス会議)に登場した言葉で、これは《AI(人工知能)とロボット、あらゆるモノを繋ぐインターネット(IoT, Internet of Thing)とビッグ・データをはじめ、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、再生可能なエネルギー開発などによって遂行される産業革命》を意味しています。

 ちなみに第一次産業革命によって各国の工業化が始まり、第二次産業革命によってそれらの重化学工業化が進み、さらには現在も続く第三次産業革命によってあらゆるものがデジタル化し始め、結果、シームレスに第四次産業革命の時代へと突入しているというのが産業革命にまつわる歴史の流れです。この第四次産業革命の影響がどのように教育に現れているのかといえば、例えばこれ。

 

 日本において第四次産業革命とICT教育の火付け役、推進役を担っているのが経済産業省です。これまで経済産業省は教育とはほとんど無関係でしたが、第四次産業革命(Society 5.0)への対応として二〇一六年に「教育産業室」を設置、二〇一八年に開設した「『未来の教室』とEdTech研究会」において教育改革の主要なエージェントとなり、「GIGAスクール構想」(二〇一九年)を文部科学省、経済産業省、総務省の三省合同で実現させました。日本のICT教育を主導してきたのは、文部科学省よりも経済産業省と言ってよいでしょう。

 

 第四次産業革命によって教育が「ビッグ・ビジネス」になってきていること、そこに経済産業省が入ってきたこと、グローバル資本も入ってきたこと、経済産業省もグローバル資本もそのねらいは「お金」なのに「すべての子どもに学びの機会を」や「平等公正な教育をすべての子どもたちに」といった博愛主義の言葉で自らを語っていること、そしてその市場化の流れに文部科学省が抗っていること。しかし抗いきれないかもしれないこと。先日読んだ松岡亮二さんの『教育論の新常識』にも同じようなことが書かれていたなって、すぐに思い出しました。

 

 

www.countryteacher.tokyo

 

 文科省 VS. 経産省という図式をICT教育の活用の仕方という「教室レベル」の話に適用して単純化すると「個別最適化・協同学習」VS.「学習の自立化・個別最適化」となります。冒頭の引用でいえば「学びの道具」VS.「教える道具」となります。経産省の推す「学習の自立化・個別最適化」は、協同学習における教師の役割を不要とすることから、人件費を削減しようと目論む「お金」目当ての勢力にとっては、

 

 渡りに船。

 

 子どもたちからトゥギャザーする経験を奪い、教師が主役のチョーク&トークの授業を配信すれば、多くの教員を解雇することができるというわけです。どんなディストピアでしょうか。

 しかも経産省の「未来の教室」は《二〇年前の「過去の教室」のIT教育に見えてしまいます》というのが佐藤学さんの見立てです。理由は、日本には「個々人の学習歴に関するビッグ・データ」がないから、とのこと。アメリカにはそれがあるとのこと。あるが故に教育の市場化が進み、小学生の子どもが「I am not a test score. I am Catherine(Robert, etc.)」というプラカードを掲げ、公立学校の危機を訴える教師たちと共にデモに参加するような悲惨な事態が起こっているとのこと。ビッグ・データがあってもなくても、そこにまともな未来はないということです。

 

 子どもは、テストのスコアじゃない。

 

 では、まともな未来を築いていくためにはどうすればいいのか。佐藤学さんはその答えに「学びのイノベーション」を推します。この「推し」については、世界の教育学者たちの見解もほぼ一致しているとのこと。具体的には「創造性」「探求」「協同」の3つが子どもたちのこれからの学びには欠かせないという見解です。おわかりでしょうか。この結論は、要するに、これまでの著書や実践で佐藤学さんが説いてきたことにコンピュータという文房具が加わっただけなんです。だから佐藤さんはそれを「学びのリ・イノベーション」と呼びます。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 最後に、佐藤学さんから現場の教員へのエールです。

 

 教師の仕事は知的文化的な労働なので、通常の労働者以上に学習の時間が必要でしょう。社会と産業の激動期であればなおさらです。
 しかし、現実は逆行しています。

 

 通常の労働者以上に学習の時間が必要なのに、忙しい毎日。佐藤学さんの『第四次産業革命と教育の未来』を始めとするブックレットであれば、30分で読めます。

 

 逆行する現実に抗うために。

 

 ぜひ一読を。