田舎教師ときどき都会教師

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宮地尚子 著『傷を愛せるか 増補新版』より。傷を抱えるすべての人に、この本を勧める。

わたしは臨床ではもっぱらアドバイスをする側であるが、「なんでこれくらいのことができないの?」と思うことは正直多い。例えば、自分を守ること、人との距離を保つこと、自分の気持ちを抑えること、独りでいること。そんな「普通の人」にとっては簡単なことでも、患者さんはできなかったりする。でも、「ああ、彼女はいつも溺れそうな気持ちで生きているんだな」と気づけば、もっと寄り添える。
(宮地尚子『傷を愛せるか  増補新版』ちくま文庫、2022)

 

 こんにちは。お酒の席でわざわざ校長にお酌をしに行ったり、出勤したときにわざわざ校長室に足を運んで挨拶をしたり、そんな「普通の人」にとっては簡単なことが、私にはできなかったりします。正直、そういった場面を見るのもイヤです。生理的に、脳神経的に、無理。

 

 なんでそれくらいのことができないの?

 

 校長と仲良くなった方が自分のやりたいことができるじゃん。合理的じゃん。そもそも学年主任が校長と仲良くなかったら、学年の先生たちに迷惑じゃん。そんなふうにアドバイスをされても、「不合理ゆえにわれ信ず(Credo quia absurdum)」と思ってしまいます。もちろん、敢えて仲を悪くしているわけではありません。わざわざ、ができないんです。まぁ、その程度の「わざわざ」すらできないのだから、普通ではないのでしょう。別言すれば「弱み」です。だから、ああ、あなたはいつも溺れそうな気持ちで生きているんだねって、気づいてくれる人にしか、心を開くことができません。

 

 人は強みで尊敬され、弱みで愛される。

 

 先人は実にうまいことを言います。弱みとは傷のこと。精神科医であり人類学者でもある宮地尚子さんは、さらにうまいことを言っています。

 

 傷を愛せないわたしを、あなたを、愛してみたい。
 傷を愛せないあなたを、わたしを、愛してみたい。

 

 うまいというか、深い。

 

 

 宮地尚子さんの『傷を愛せるか  増補新版』を読みました。宮地さんの本を読んだのは初めてです。近しい人へのプレゼント用の本を探しに、近所の本屋をうろうろしていたところ、タイトルに目が留まって少し立ち読みをしました。本の帯には《トラウマ研究の第一人者による、深く沁みとおるエッセイ》とあります。

 

 これにしよう。

 

 娘がまだとても幼いころ、外出先で階段から転げ落ちたことがあった。少し離れたところにいたわたしは、落ちていく姿をただ見つめていた。ただ黙って、目を凝らしていた。静かに。動くこともなく。はたからは冷たい母親だと思われたかもしれないと、あとで思った。母親だとふつう、パニックになって叫んだり、あせって駆け寄ったりしそうだからだ。
 なぜパニックにもならず、駆け寄ることもなく、ただ見つめていたのか。
 たぶんわたしはそのとき、医師としての自分になっていたのだろう。どのように落ちていったかをきちんと見ておくことが、その後どのように対処すればいいのかを考えるのに、いちばん役立つからだ。

 

 巻頭エッセイ「なにもできなくても」の書き出しより。内容も文章も、素晴らしい。情景も心情も、ありありと想像できる。共感もできる。故・井上ひさしさん(1934ー2010)いうところの「むずかしいことをやさしく」「やさしいことをふかく」「ふかいことをおもしろく」とはまさにこれだ。

 書き出しだけ読んで、すぐにレジに向かいました。プレゼント用と、私用の2冊を持って。きっと「あたり」に違いない。

 

 あたりでした。

 

 収録されているエッセイは全29編。Ⅰの「内なる海、内なる空」に8編、2007年から2008年までの米国滞在記+α を題材としたⅡの「クロスする感性」に14編、文庫化にあたって増補されたⅢの「記憶の淵から」に6編、そしてⅣの「傷のある風景」に1編。Ⅳの「傷のある風景」に収められた1編は、本のタイトルと同じ、

 

 傷を愛せるか。

 

「弱さを抱えたままの強さ」を男性が提唱し、保ちつづけるのは、女性よりもはるかにむずかしい。自分の気持ちや感情を聞いてもらうことは、「弱音を吐く」ことであり、相手に「弱みを握られる」危険に自分をさらけ出すことでもあり、競争においては不利に働くからだ。「仕事モード」で課題をこなしていくには、感情にふれないほうが効率的でもある。
 それでも、だからこそ「弱さを抱えたままの強さ」を目指すことは、むしろ男性にとってより意義深いのではないかと思う。自分の弱さを認め、「鎧」を外し、肩の力を抜き、自然体でいられる男性のほうがむしろ強くて、魅力的だともいえる。そのことを、多くの傷ついた男性たちが、回復過程の中で示そうとしている。

 

 その「傷を愛せるか」ではなく、Ⅱの「クロスする感性」に収録されている「女らしさと男らしさ」より。全エッセイに、弱さであったりダメさであったり傷であったりを「愛せるか」という問題意識が通奏低音として流れているというわけです。で、弱さといえば、ダメさといえば、傷といえば、最近の私の関心領域でいうところの「発達界隈」が、

 

 どんぴしゃり。

 

 

 発達障害の当事者である横道誠さんに限らず、発達界隈と呼ばれる人たちの多くが傷を抱えて生きています。宮地さんの表現に寄せると、大人の発達障害者は《自分の弱さを認め》、《自然体でいられる》生き方を、

 

 模索している。

 

気の置けない友人と(2024.5.5)

 

 昨夜、友人と旧交を温めました。ああ、あなたはいつも溺れそうな気持ちで生きているんだねって、気づいてくれる人と「居る」のは楽しい。敢えてするお酌だったり、敢えてする挨拶だったりができない「弱さ」を抱えるすべての人に、

 

 傷を抱えるすべての人に、 

 

 お勧めします。