「発達障害は大きな免罪符にならない。発達障害だから仕方ないと考えると、未来はありません。障害があったら、人の10倍は考えて、工夫しないといけないと思ってます。発達障害や精神障害があっても、それに引っ張られすぎてはいけない。楽しいことはたくさんあります」。
(横道誠『発達界隈通信』教育評論社、2022)
こんばんは。教育評論社から出ているというのがいいですよね。この『発達界隈通信』が、です。教員は、読んだ方がいい。読めば、各教室にいる発達界隈の子どもたちの振る舞いに目くじらを立てたり、振り回されたりすることが少なくなると思うからです。
発達障害だから仕方ない。
大人の発達障害とは違って、子どもの、特に小学生の発達障害は「発達障害だから仕方ない」という面が多々あります。学校教育が前提としてしている「みんなに同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、できあいの問いと答えを一斉に勉強させる」(By 苫野一徳さん)というスタイルに、発達障害の子が合うはずがないからです。障害は社会の側に宿るという「社会モデル」でいえば、学校は間違いなくその子を「障害者」にしているといえます。とはいえ、
学校を責めているわけではありません。
学校という「社会モデル」は発達障害の子どもに合わないのだから、担任一人に責任を押しつけるのではなく、もっと教員を増やすなり一クラスの人数を減らすなりして、つまり公教育にお金を投入して、そろそろ真面目に「個別最適化な学び」ができる土壌をつくってほしいという話です。欠員が出ているのに《これまで以上に「個別最適な学び」と「協働的な学び」を一体的に充実》(By 文部科学省)させることなんてできませんから。むしろこれまで以上に「みんなに同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、できあいの問いと答えを一斉に勉強させる」ことになりますよ、
教員不足なんだから。
横道誠さんの『発達界隈通信』を読みました。障害と脳の多様性を生きている発達界隈の人たち(27人)に、自らも当事者である著者がインタビューを試みた、発達界隈図鑑とでも呼びたくなるような作品です。
これだ、読みたかったのは。
そう思ったのは、以前に読んだ『発達障害者は《擬態》する』に登場した当事者たちの属性が偏っているように思えたからです。
横道誠さんの『発達界隈通信』読了。以前に読んだ『発達障害者は〈擬態〉する』に出てきた当事者は高学歴ばかりで、あとがきにも《学力的に水準の高い人たちがずらっと並ぶことになった》とあったけど、この『発達界隈通信』はそうではなく、これだ、読みたかったのは、と思った。続編も期待。#読了 pic.twitter.com/TjekZ1mMsf
— CountryTeacher (@HereticsStar) May 7, 2024
擬態する能力のない、あるいは高学歴ではない発達界隈の人たちはどのような人生を送っているのか。横道さんの本にはまるきっかけとなった『発達障害者は《擬態》する』を読み終えたときに浮かんだ「問い」です。答えはすでに「通信」というかたちで出版されていました。
みんな違って、みんなダメ。
横道誠さんの『発達界隈通信』の「No.2」に《池ちゃんに「大人の発達障害から学んだことは?」と尋ねると、「大人の発達障害者はみんな違って、みんなダメだってことですかね」と笑う》とあって、宮地尚子さんの『傷を愛せるか』を想う。ダメさを愛せるか。笑った後に池ちゃんも同じことを言っている。
— CountryTeacher (@HereticsStar) May 5, 2024
横道誠さんの『発達界隈通信』の「No.12」に《新宿二丁目に遊びに行くと、占いバーで「占いに関係ないんだけど、あなた、ぼくと同じADHDだと思いますよ」と指摘された》とあり、続けて《主治医から「100点満点のADHDです」と声をかけられた。「人生初の100点でした!」》とあって、まるで映画のよう。
— CountryTeacher (@HereticsStar) May 7, 2024
診断がおりている人もいれば、そうでない人もいます。いずれにせよ、インタビューを受けている27人の多くが、「個別最適」とはかけ離れた子ども時代を過ごしていることに、読むと、気づきます。
例えば「No.7」のハツエルさん。
小学生のときには、不注意がはっきりしていた。毎日のように宿題を忘れた。机のなかに使用済みのティッシュを押しこんでいた。気がつくとみんな移動していて、ひとりで取りのこされる。ランドセルを持たずに登校した。靴下を履いたままプールに入った。
例えば「No.9」の山瀬健治さん。
小学校に入ったが、とにかく忘れ物が多かった。給食の食べ残しを机のなかに入れて、腐らせる。ロッカーのなかはゴミだらけで、学期末にとんでもないものが出てくる。通信簿には、忘れ物のことが書かれ、人の話をよく聞きましょうと注意された。
例えば「No.17」のひまわりさん。
友だちができにくい子ども時代を過ごしたと語る。思ったことをオブラートに包まずに言ってしまう。そのため、人の輪に入れない。保育園を途中でやめ、幼稚園に入りなおして、祖母になだめすかされながら通っていた。小学生のときに状況は悪化。「どちらかというといじめられていました」と語る。
ちなみに山瀬健治さんは小学6年生のときに将棋の大会で全国ベスト32に入っています。凸凹があるんですよね、発達界隈の人たちには。そしてその凸凹は、子ども時代にはっきり出やすいことが知られている。だからこそ、その凸凹に「個別最適」な働きかけができるよう、教員を増やしてほしい。予算を充ててほしい。子どもに関していえば、発達障害は大きな免罪符に、
なる。
ゴールデン・ウィークの後半、教員になったばかりの教え子とはしご珈琲をしました。クラスの子どもたちのことを「天使のよう」と話していました。初任の頃、私もクラスの子どもたちのことを「天使のよう」と思っていたような気がします。最近はしばしば「発達のよう」と思います。
汚れちまった悲しみに。
おやすみなさい。