何かを達成したアスリートの足跡を見て、それが努力の集積に見えてしまいがちだが、ほとんどの場合それらは夢中の結果である。だから努力は本質ではない。努力は夢中の副産物。
最もやってはならないのは夢中の子どもに、夢中の仕方を押し付ける事である。夢中は自由の中にしかない。
(為末大『走る哲学』扶桑社新書、2012)
こんばんは。先日、某NPO法人が主催する「集中」をテーマにしたワークショップに参加してきました。15人程度の参加で、職種はバラバラ、教員は私だけ。ここ最近、見渡せば教員ばかりという状況(研修、学習会、セミナーなど)に食傷気味だったので、正直、ホッとしました。
ごっちゃ(多様)こそ、万物の礎。
で、五感を使ったワークやら、集中に関するワークやらを休憩と振り返りを挟みつつ約3時間。途中から子どもの気分に。
五感を使ったワーク。まずは利き水チャレンジで「味」に集中しました。いま流行りのマインドフル・イーティングみたいな感じです。最初にエビアンを飲んでから、①~③の中で、どれがエビアンかを飲み比べ、当ててみたところ……、不正解でした。①ボルヴィック、②六甲のおいしい水、③エビアン。難しい。
五感を使ったワーク。
続いては香りと重さ。
香りに集中するワークは、利き水チャレンジと同じやり方で、今度は袋に入っている香水の香りをかぎ比べて、最初にかいだものと同じ香りのする袋を当てるというもの。ローズとかムスクとかジャスミンとか、忘れましたが、いろいろ。利き水よりはわかりやすかったものの、また不正解。う~ん。
重さに集中するワークは、目隠しをした上で、5本のペットボトルを重い順、或いは軽い順にならべるというもの。ペットボトルはみな同じサイズで、入っている水の量だけがそれぞれ異なります。これは正解!
五感を使ったワークの後には、集中に関するワークに取り組みました。取り組んだワークは3つ。そのうちのひとつが、写真にある「綿棒で多面体をつくってみよう🎵」です。ボンドと綿棒を手に黙々と作業すること約40分。途中、周囲の進捗状況が気になり、席を立ってうろうろすることしばしば。そのためなのか、不器用さのためなのかはわかりませんが、完成した作品には「歪み」がくっきりと。集中するって、難しいなぁ。
最後のシェアタイムで話したこと。
ワークはそれぞれよく工夫されていておもしろかったものの、「次はこれ」「次はこれ」「次はこれ」と、次々と与えられる課題に対して、その都度気持ちを切り替えて集中し、黙って取り組むというのは、なかなかにしんどい。「次は国語」「次は算数」「次は理科」と、猫の目のように変わる時間割の中で、子どもたちにはしょっちゅう「集中!」とか言っているくせに……。
努力は夢中に勝てない、とは為末さんの名言。
与えられた課題に対する「集中」には「努力」が求められます。授業中、集中していない子どもに教師が投げかける「集中しよう」は、この集中です。言い換えると「努力しよう」になります。それに対して、自らの好奇心をベースにした、与えられたものではない課題に対する「集中」は別もので、これは為末さんがいうように「夢中」と置き換えることができます。
整理します。集中には2つあります。
夢中と呼べない、努力を要する集中。
夢中と呼べる、努力を要しない集中。
小学生の次女が、さっきまで夢中になってパラパラ漫画を描いていました。NHK連続テレビ小説『なつぞら』の影響です。学校教育(特に授業)の中では、そういったことに夢中になれる場面って、なかなかありません。『「学校」をつくり直す』(河出新書、2019)などの著書がある、哲学者の苫野一徳さんが言っているように(嘆いているように)、現状、学校は「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」やるところです。そうだとすると、「自由」の中にしか存在しない「夢中」には、出る幕がありません。
過労死レベルで働く先生と、ときに集中はすれど、夢中にはなかなかなれない子どもたち。何なんですかね、これは。って、シェアタイムでは話しきれなかったことを夢中になって喋った、その日の酔り道でした。
Freedom for children!