不平等な社会においては、学校はしょせん不平等を再生産する装置にすぎない。著者たちの真意はともかく、これがコールマン・レポート(Coleman etal. 1966)、およびジェンクスの『不平等』(Jencks 1972)という著書が提示した学校観であった。エドモンズのエフェクティブ・スクール論の出発点は、この学校無力論に対する批判であった。
(中略)
そこで彼は、コールマン調査のデータを用いて、新たな枠組みでの再調査を企図したのである。その調査は、「効果のある学校を探す」と名づけられた(Edmonds 1977)。(鍋島祥郎『効果のある学校』解放出版社、2003)
おはようございます。今日は鍋島祥郎さんの『効果のある学校』より。人種や階層による学力格差を克服している学校は存在するのか。いわゆる「効果のある学校論」について書かれた一冊です。ポイントは保護者との関係づくり。よく知られている話、と思いきや、若手の先生に「効果のある学校論って知ってる?」と訊いたら首を横に振られたので、ここに整理しておきます。
効果のある学校論。
移民の多いアメリカや、購読している新聞が階層ごと明確に異なるとされる階級社会のヨーロッパでは、半世紀以上も前から社会学的なアプローチによって「子どもたちの学力を規定している要因」を調査し、その結果を公表しています。
有名なところではコールマン・レポート。1964年にアメリカ連邦政府が公民権法に基づいて実施した調査をまとめたもので、子どもたちの学力を規定する要因の大部分が家族と子どもの仲間集団、すなわち地域であると報告し、世界的な規模のショックを巻き起こします。ヨーロッパを例にとれば、社会学者のピエール・ブルデューが提唱した「文化資本」という概念がよく知られており、本に囲まれた家庭や立ち居振る舞いの美しい家庭など、「蔵書」や「挙措」、或いは「学歴」などに代表される「文化資本」に恵まれた家庭の子どもは、学校教育と親和的で、学業達成率が高くなるといわれています。
学校は無力なのか。
コールマン・レポートもブルデューの提唱した概念も、どちらも家庭背景決定論、及び学校無力論につながっていきます。
過労死レベルで働いているのに、無力だなんて。
日本でも欧米の研究を受けて、十数年前から「効果のある学校」探しが始まっています。結論からいえば、効果のある学校は「ごく僅か」ではあるものの確かに存在し、効果を上げている決定的な要因として、学校が家庭に働きかけていること、学校と地域・家庭の対話がスムーズであることが指摘されています(志水宏吉、他『調査報告「学力格差」の実態』岩波ブックレットや、上記引用の『効果のある学校』などより)。
ごく僅か。
そんなわけで、田舎教師だろうと都会教師だろうと、若手教師だろうとベテラン教師だろうと、保護者とうまく関係をつくっていくことは、学級づくりや授業づくりと同様に、或いはそれ以上に大切な仕事になります。有名なところでいうと、隂山英男さんの「早寝早起き朝ごはん運動」なんかも、家庭への働きかけ&保護者との関係づくりの一例です。
① 学級づくり
② 授業づくり
③ 保護者との関係づくり
都会教師は①から③まで全てに力を発揮しなければいけません。ひとつでも欠けると他にマイナスの影響が出てくるからです。これが結構きつい。特に右も左もわからない若手は、②だけでも精一杯なのに、過労死レベルのハードワークと相まって、ホント、大変です。
一方、田舎教師には、①と③をすっとばして②に集中できるというアドバンテージがあります。「私たち幼なじみです」という、クラスがはじまる前からゆるやかにつながっている子どもたちと、先生を先生として当たり前のように立ててくれる保護者の存在は、記念碑的にでっかい。先生になるならまずは「田舎教師」から、私がそう勧める所以です。
都会教師のよさも、ひとつ。
政令指定都市で働いていたときに、キャリア教育(総合的な学習の時間)の一環として、保護者をゲストに招き、それぞれの生き方や考え方を語ってもらったことがあります。作家やピアニスト、主婦や主夫、医師やエンジニア、裁判官や「人様には言えないくらい(給料を)もらっています」と語る外資のコンサルタントさんなど、教室からつながる人脈はまさにきら星の如く(!)。って、ちょっと盛っていますが、多様な保護者とつながれることは、都会教師の醍醐味のひとつです。バックパッカーをしているときに味わえる「ユニークな旅人と出会う喜び」と同じ感覚かもしれません。小林紀晴さんの『アジアン・ジャパニーズ』みたいな。
出会いが夢をつなぎ、
夢が出会いをつくる。
保護者との関係も、そうありたいものです。