田舎教師ときどき都会教師

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恩田陸 著『蜜蜂と遠雷(上)』より。オンライン配信? ギフトか、災厄か。

 カメラを向けられるというのは嫌なものだ。撮るのを仕事にしている雅美ですらそうなのだから、ずっとカメラがそばにいて撮られるというのは、常人の神経にとっては多大なストレスである。
(恩田陸『蜜蜂と遠雷(上)』幻冬舎、2016)

 

 おはようございます。9月1日に2学期が始まりました。出席している子どもたちと、コロナ不安で欠席している子どもたちをオンラインでつないでの、

 

 二刀流。

 

 で、そうなんです。ストレスなんです。ずっとカメラがそばにいて撮られるというのは、教員の神経にとっては多大なストレスなんです。そういうことがわかった上での「オンライン配信」なのでしょうか。しかも、オンライン配信の主役は教師と黒板です。前提としている授業スタイルは、10年以上も前に教育学者の佐藤学さんが《もはや博物館に入っている》と揶揄した《黒板と教卓があって机と椅子が一方向に並べられ、教師が教科書を中心に説明し生徒がノートをとる》という、いわゆるチョーク&トークの一斉授業です。主体的・対話的で深い学びはどこへいってしまったのでしょうか。詩人は「多忙なる蜜蜂は悲しむ暇もなし」と詠むけれど、

 

 悲しい。

 

 悲しいからカメラ固定の「オンライン配信」ではなく、カメラワークとコミュニケーション有りの「オンライン授業」を試みたものの、これはしんどい。担任ひとりで「教室にいる子どもたちの相手」と「オンラインでつながっている子どもたちの相手」を同時にするには、複数台の端末を雷の速さで操作し、かつ肖像権に配慮しながら秒刻みの判断を繰り返さなければいけません。45分の授業にピアニストほどの集中力を要するなんて、しかもそれが毎日6コマあるなんて、あほです。終わった後に拍手があるわけでもないし。あるとしたらカメラの向こう側にいる保護者からのクレームでしょうか。俳人は「遠雷やはづしてひかる耳かざり」と詠むけれど、そんな暇はないくらい、

 

 忙しい。

 

 

 恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷(上)』を読みました。傑作すぎて、読み終わった後はそれまで身を委ね衝撃に耐えていた物語が終わったことに気付くのが遅れ、小説家が立ち去ったことに気付くのも遅れ、ぎこちない沈黙が一瞬 Tully's を覆ったほどです。

 

モノが違う。

 

 風間塵や栄伝亜夜の演奏を耳にした観客たちの描写を借りると、そんなふうに表現したくなります。マサル・カルロス・レヴィ・アナトールと高島明石の演奏も、よかった。読むと聴くが渾然一体となって迫ってくる様は神がかり的です。風間塵や栄伝亜夜に見えているものが音楽の神様だとすれば、恩田さんは、まさに、小説の神様。

 

神様は、ここにいた。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 舞台を「夜」から「第6回芳ヶ江国際ピアノコンクール」に移し、天才たちによって繰り広げられる「共演 & 競演 & 協演」を描いた、恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』上下巻。上巻ではエントリーから第二次予選の途中まで、下巻では第二次予選から本戦までの様子が奏でられます。

 

 メインとなるコンテスタントは4人。

 

 努力は夢中に勝てないを体現する風間塵16歳。夢中を忘れていたもと天才少女の栄伝亜夜20歳。神様から二物も三物も与えられたマサル・カルロス・レヴィ・アナトール19歳。そして楽器店勤務のサラリーマンでありパパでもある高島明石28歳。昨日、記念すべき第100巻が発売された、尾田栄一郎さんの漫画『ワンピース』でいえば、塵がルフィーで亜夜がロビンでマサルがゾロとサンジを足して2で割らない感じで明石がう~ん、誰だろう。エントリーのときの明石の思いを引きます。

 

 俺はいつも不思議に思っていた ―― 孤高の音楽家だけが正しいのか? 音楽のみに生きる者だけが尊敬に値するのか? と。
 生活者の音楽は、音楽だけを生業とする者より劣るのだろうか、と。

 

 サラリーマンでありパパでもある私は当然、明石推しです。生活者の教育は、孤高のカリスマ教師より劣るのだろうか、と。明石だけが麦わらの一味に入っていないところもまたこの小説の魅力のひとつでしょう。

 とはいえ、やはり鍵を握っているのはルフィーです。養蜂家の父親と旅人のような生活を続けている、蜂蜜王子こと風間塵です。正規の音楽教育を受けていない彼が、既存の音楽業界に受け入れられるのかどうか。

 

 皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。
 文字通り、彼は『ギフト』である。
 恐らくは、天から我々への。
 だが、勘違いしてはいけない。
 試されているのは彼ではなく、私であり、皆さんなのだ。
 彼を『体験』すればお分かりになるだろうが、彼は決して甘い恩寵などではない。
 彼は劇薬なのだ。
 中には彼を嫌悪し、憎悪し、拒絶する者もいるだろう。しかし、それもまた彼の真実であり、彼を『体験』する者のなかにある真実なのだ。
 彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、皆さん、いや我々にかかっている。

 

 風間塵の推薦状に記された、今は亡き伝説的なピアニスト、ユウジ・フォン=ホフマンの言葉です。風間塵は5歳のときからホフマンに師事しています。否、もしかしたらホフマンが彼に師事していたのかもしれません。カザマ・ジンは、それくらいの才能です。弟子をとらないことで有名だったホフマンが、わざわざ彼のもとへちょくちょく出かけていって指導していたというのだからさもありなん。さて、風間塵という爆弾が炸裂することになる芳ヶ江国際ピアノコンクールの結末や如何に。

 

 ギフトか、災厄か。

 

 オンライン配信は「災厄」でしょう。委員会からのトップダウンで「オンライン配信」なんて言葉が降ってくること事態が、チョーク&トークではない授業スタイル、例えばイエナ・プランや『学び合い』や「教師はファシリテーター」といった考え方が、結局は教育界にすら「ギフト」として受け入れられていなかったことを示しています。日本の教育は既存の博物館のままだった。教師でも黒板でもなく、児童同士のかかわりを主役とした「主体的・対話的で深い学び」なんて、言葉だけのものだった。

 

 試されているのは子どもたちではなく、

 

 教員です。