田舎教師ときどき都会教師

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小松理虔 著『新復興論 増補版』より。ローカルアクティビストの性 ≒ 先生の性。

 福島では、差別やデマを排除したいと考えるあまり、想像力そのものを拒絶し、福島が誰かの作品になることを拒んできた。自分自身、数値やデータと深く関わり、科学的に理解できない人を排除しようとした時期があっただけに自省の念は強い。震災から七年。これからは、数値やデータで語られるものだけではなく、むしろ数値やデータを重んじるあまり見逃されてきた小さなナラティブや、震災で亡くなった人たちの声、かつてここに暮らしてきた先祖たちや霊、すなわち死者の声を、文学や芸術、そして観光がもたらす想像力によって翻訳していく。そのような試みを起動させなければいけない。古川との出会いを通じて、私はそんな考えを持つようになった。
(小松理虔『新復興論  増補版』ゲンロン、2021)

 

 おはようございます。5日(月)の入学式準備に始まり、6日(火)の始業式と入学式、そして7日(水)の給食スタートと、先週は「#教師のバトン」に対する想像力そのものを拒絶しているのではないかというくらいにハードな1週間でした。ブログどころではありません。8日の木曜日にはフラフラに。

 

 #教師のバトン = 教員の過酷な勤務実態

 

 その木曜日の夜遅く、持ち帰り仕事を大量に抱えたまま帰宅したところ、なんと、気仙沼からクール便が届いているではありませんか。箱の中にはホヤがいっぱい。大漁です。すぐにさばいた方がよさそうだったので、目を輝かせている長女と共にキッチンへ。そうなるともう、持ち帰り仕事どころではありません。

 

 

 思春期長女、楽しそう。

 

 夢中になっている我が子と協働で何かをすること以上に幸せなことってないのではないでしょうか。ホヤをさばくなんて、なかなかできない体験です。あまりにも楽しそうだったので、小松理虔さんの新刊(増補版)に登場する「うみラボ」みたいだなって思いました。うみラボとは「いわき海洋調べ隊うみラボ」のことです。長女と次女を連れて行きたいなぁ。

 

 

 小松理虔さんの『新復興論  増補版』を読みました。2018年に大佛次郎論壇賞を受賞した作品に、3万字超の新論考(書き下ろし)を加えた増補版です。震災から10年。ヤマトとアイヌが混じり合い、暖流と寒流がぶつかり、北限の植物と南限の植物が共生するという「潮目」の地「いわき」で、ローカルアクティビスト「小松理虔」は何を思い、何を感じているのか。

 目次は、以下。第4部「復興と物語」が、増補版の「書き下ろし」に当たります。

 

 はじめに
 第1部 食と復興
 第2部 原発と復興
 第3部 文化と復興
 おわりに
 第4部 復興と物語

 

 いわき海洋調べ隊うみラボ(通称「うみラボ」)の話は、第1部「食と復興」に登場します。福島第一原発沖に船を出してそこで海底土や魚などを採取し、放射線量を測定して公表するというプロジェクト、それがうみラボです。船の定員は20人で、一般の参加者もいるとのこと。釣りを楽しんだり、発電所を眺めたり、原発についてのレクチャーを受けたりって、小学校でいうところの「総合的な学習の時間」のようです。我が子もクラスの子も連れて行きたいなぁ。

 

 学習とは変化すること。

 

 小松さん自身の「変化」が、うみラボが優れた学習プログラムであることを証明しています。

 

 うみラボの活動が始まってから、鮮魚店に行くことが増えた。鮮魚店に行くようになって、鮮魚店の店員と話すことが増えた。旬の魚を覚えたり、魚のさばき方を教えてもらったり。そのうち常連になって、買い物をするとなにかおまけがもらえるようになった。日常の食卓が少しずつ楽しくなり、日々の生活が、よりよいものになった。そういう実感が強い。今では、仲良くなった魚屋の若女将や料理人と、その魚屋で酒と料理を楽しむ「さかなのば」というイベントを企画している。

 

 うみラボに参加すると「原発直近の海なんて汚染されている」という認識が変化するそうです。ポイントは、正義ではなく享楽を通して変化するというところ。学級づくりや授業づくりと同じで、復興には正しさだけでなく楽しさが求められます。

 

 海は、楽しい。

 

 初任校は漁師町にあったので、総合的な学習の時間のときに海のことを学ぶ機会が多くありました。定置網起こしや牡蠣むき体験、プランクトン調べなど、都会育ちの私にとっては見るもの全てが新しく、ホント、楽しかったなぁ。だからでしょうか、うみラボの教育的価値のようなものがとてもよくわかります。そこにさらに「食」が加わるわけですから、総合的な学習の時間のデザインとして、完璧です。復興に向けた活動のデザインとしても、完璧なのでしょう。

 

 食も、楽しい。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 うみラボの活動を含め、楽しそうなトーンの第1部に対して、第2部「原発と復興」にはしんどい話が出てきます。しんどさは小見出しによく表われていて、例えば「賠償金というジレンマ」「複雑な分断を抱える浪江町」「根強く残る多重下請けと住民との軋轢」「放射能不安とどう向き合うか」「10万年の憂鬱」「漁業者に押し付けられるトリチウム水」など、考えさせられるものばかり。昨日のニュースに「政府  福島第一原発のトリチウムなど含む水  海洋放出方針固める」(NHK)とありましたが、まさに現在進行形というか10万年後まで続くかもしれないしんどさです。

「根強く残る多重下請けと住民との軋轢」というのは除染作業員の話です。除染に関しては多重下請け構造の問題があり、曰く《まともな現場作業員を集められず、半グレのような人たちが「とりあえ食えそうな仕事」として除染作業員を選んだり、暴力団が日雇い労働者を強引にかき集め、福島に送り出したりする実態にもなってしまう》とのこと。かつての教え子に「夏はずっと福島にいました」と話していた子がいて、おそらくは父親が「かき集め」られていたのだろうなと読みながら思いました。暴言吐きまくりの、とんでもない父ちゃんだったからです。

 

 あの子、今頃何をしているかなぁ。 

  

 

 長女がホヤをさばいた翌日(9日)の夜に、人生の大先輩からそういった話を聞きました。父ちゃんがとんでもなかったり、母ちゃんがとんでもなかったりすると、子どもは《治すことを目指すのではなく、これから一生付き合っていくいくべきもの》を抱えることになります。そして、そういった教え子に出会うと、何もしてあげられなかったなって、気になり続けてしまうのが「先生の性」です。第3部「文化と復興」に《原発事故を、回復可能な怪我として捉えるのではなく、運命をともにすべき障害として捉えてみる。すると、私たちが陥っている思想的なジレンマにもうまく対応できるような気がするのだ》とあり、ちょっと似ているなって、そう思いました。

 

 先生の性 ≒ ローカルアクティビストの性

 

www.countryteacher.tokyo

 

 増補版にあたる第4部「復興と物語」には、この春に小学生になるという、小松さんの娘さんの話が出てきます。

 

「おわりに」にも記したとおり、震災後のぼくにとっての「外部」は娘だった。二年半で、その娘が二年半ぶん成長した。彼女は、今はもう六歳になっていて、この春からは地元の小学校に通い始める。多くの言葉を理解できるようになった。海沿いをドライブしたときには、ここで津波があったこと、大勢の人たちが死んでしまったことを話した。いわきから浪江町まで、二人でロッコクをドライブしたときには、ぼくがガイドをしながら見て回った。ゲートで固く門が閉じられた家々。震災当時の姿を残す建物。伸び放題の木。そこで何が起きたのかを、彼女はまだほとんど理解できない。けれど、父が何か大事なことを話そうとしていることや、この場所で何か大変なことが起きたということを受け止めようと必死になっている、そんな顔をしていた。

 

 いい父ちゃんです。いいナラティブです。広島や長崎、沖縄、そして水俣はもちろんのこと、福島についても子どもたちにしっかりと伝える(というか種をまく)ことができるように、小松理虔さんの『新復興論  増補版』、お勧めです。教育関係者には、特に。

 

 これから出勤です。

 

 日曜日なのに😭