けれどこの本は、ただ情報を提供するよりも、はるかに遠くまで届く。見たところどうにも寄る辺ない自閉症児の体の中に、あなたの、私の、みんなの体の中とおなじ、好奇心にみちた繊細で複雑な心が閉じこめられているのだという証拠を、この本は提供してくれる。二十四時間、週七日体制が必要な苦労の陰では、こんなにも世話をしなければならない相手が、自分自身よりも多くの点で能力があるという事実など、いとも簡単に忘れられてしまう。
(東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』角川文庫、2016)
こんばんは。一昨日は保護者会で、昨日と今日は出張でした。ただでさえ24時間、週7日体制が必要なくらいの仕事量なのに、放課後の時間を立て続けに奪われてしまうと、もう完全にお手上げです。疲労が溜まり、帰るときには跳びはねるの反対で地面にめり込みそうになります。
この「帰り道」のしんどさ、律と周也ならわかってくれるかもしれません。6年生の国語の教科書(光村図書)に載っている、森絵都さんの『帰り道』の主人公です。曰く《思っていることが、なんで言えないんだろう》って、自閉的な人物として造形されている律と、その反対の、周也。
小四から同じクラスの周也。家も近いから、周也が野球チームに入るまでは、よくいっしょに登下校をしていた。なのに、今日のぼくには、周也と二人きりの帰り道が、はてしなく遠く感じられる。
自閉症の人たちが感じている、定型発達の人々との距離は、もっともっとはてしなく遠いのだろうなって、先日、映画『THE REASON I JUMP』(ジェリー・ロスウェル監督作品)を観たときにそう感じました。原作は『自閉症の僕が跳びはねる理由』の著者である東田直樹さんです。
ポスターには「日本人の少年が紡いだ言葉が世界中の自閉症者と家族を救った」とあります。この言葉に惹かれて、それからポスターの隣に書かれていた「特別ビデオ舞台挨拶実施決定!」という言葉にも惹かれて、先日、休日出勤の「帰り道」に、フラッと映画館へ。東田さんの本を読んだこともないのに、存在すらよく知らなかったのに、そして地面にめり込みそうなくらい疲れていたのに。
映画館の「帰り道」には、フラッと本屋へ。
そこで東田さんの『自閉症の僕が跳びはねる理由』と『跳びはねる思考』を買いました。映画『THE REASON I JUMP』と同じかそれ以上に、文字盤ポインティングによる東田さんのビデオ舞台挨拶に衝撃を受けたからです。文字盤ポインティングについては、以下の動画を、ぜひ。
東田直樹さんの『自閉症の僕が跳びはねる理由』を読みました。自閉症という障害を抱える東田さんが、13歳のときに書いたエッセイです。30か国で出版された大ベストセラーだというのに、未読でした。このエッセイを翻訳し、Naoki Higashida を世界に知らしめたのが、映画にも登場するイギリス人の作家、デイヴィッド・ミッチェルさんです。
まだ片足を子供時代につっこんだ年齢の、しかも自閉症の症状が、私の子と少なくとも同じくらいに困難が多く、生活を左右するものであるような著者によって書かれたこの本は、天の啓示といってもいい、思いがけない贈り物だった。この本を読んだとき、直樹の言葉をつうじて、まるでうちの息子が自分の頭の中で起きていることについて、初めて私たちに語ってくれたかのように感じられたのだ。
デイヴィッドさんによるあとがきより。この文章の後に、冒頭の引用が続きます。デイヴィッドさんのお子さんも、東田さんと同様に自閉症という障害を抱えていていて、推測するに《うちの息子》も「跳びはねる」に類することをしていたのでしょう。当然、親は聞きたくなります。
なぜ跳びはねるの?
定型発達の子であれば、言葉を使って答えることができます。しかし《自閉症の子供の多くは、自分の気持ちを表現する手段を持たない》ので答えることができません。デイヴィッドさんに限らず、自閉症の子どもをもつ世界中の親たちが知りたがっていたその理由を、いわば「鍵のかかった箱の中にある鍵」を手に入れて「箱の中にあるもの」を届けてくれたのが、自閉症の僕こと東田さんだったというわけです。
なぜすぐに返事をしないの?
僕たちが話を聞いて話を始めるまで、ものすごく時間がかかります。時間がかかるのは、相手の言っていることが分からないからではありません。相手が話をしてくれて、自分が答えようとする時に、自分の言いたいことが頭の中から消えてしまうのです。
この感覚が、普通の人には理解できないと思います。
東田さんの『自閉症の僕が跳びはねる理由』は「Q&A」形式で書かれていて、上記の引用は「すぐに返事をしないのはなぜですか?」という「Q」に対する「A」の一部です。
まるで律のよう。
インド、イギリス、アメリカ、そしてシオラレオネの自閉症児とその家族が登場する、映画『THE REASON I JUMP』では、東田さんのその言葉は次のように紹介されています。
人と話そうとすると僕の言葉は消えてしまう。口から出る言葉は本心とは違う。
やはり律のよう。
そして周也のようでもある。
律のようにうまく言葉が出ない子も、周也のように口から出る言葉が本心とつながっていない子も、それから直樹のように気がついたら動いちゃっている子も、体の中には《好奇心にみちた繊細で複雑な心》が閉じ込められているんだって、誰もがそんなふうに直観することができれば、学校現場における指導や支援の在り方にも変化が見られるはずです。低学年によくある「グーピタピン」なんて、迂闊に言えなくなる。ちなみに「なぜ跳びはねるの?」に対する答えは、以下。
僕は跳びはねている時、気持ちは空に向かっています。空に吸い込まれてしまいたい思いが、僕の心を揺さぶるのです。
言葉以前に、心と体がある。
帰り道の終盤、律と周也の足取りが「重い」から「軽い」へ、言うなれば「跳びはねる」へと変化するのは、空から降ってきた突然の雨に2人の心と体が反応したからです。言葉以前にカラフルな「心と体の世界」があるということ。東田さんの『自閉症の僕が跳びはねる理由』や、映画『THE REASON I JUMP』が、人間が言葉を獲得する以前の「ありのままの姿」を思い出させてくれるのと同じように、森絵都さんの『帰り道』もまた、心と体の大切さを思い出させてくれるというわけです。
僕は、自閉症とはきっと、文明の支配を受けずに、自然のまま生まれてきた人たちなのだと思うのです。
(中略)
僕たちが存在するおかげで、世の中の人たちが、この地球にとっての大切な何かを思い出してくれたら、僕たちは何となく嬉しいのです。
忙しさの中で、いとも簡単に忘れられてしまう大切な何か。
心と体を大切に。