田舎教師ときどき都会教師

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門田隆将 著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日』より。イデオロギーと「人として」の意味と『Fukushima 50』。

 国家のリーダーとしての孤独を、菅はこう語った。
「あの一週間は、すぐ隣の公邸にも帰らずに、夜も総理執務室の奥の応接室のソファに、防災服のまま毛布をかぶって寝ていました。一人になった時は、こう頭に浮かぶわけですよ。日本はどうなるかな、と。まさに背筋が寒いですよ。チェルノブイリは、結局、軍隊を出して、それで、みんなにセメントを持たせて、放り込んで石棺をつくるわけですよ。それで、相当の人が亡くなっている。軍隊を投入して、相当の犠牲者を出して抑え込んだわけですよね。そういうことは、私も知ってますから、どこまでいくんだ、あそこから逃げたらどうなるんだと、ずっと考えていましたよ」
 もし、そういう事態になったら、言うまでもなく首都・東京もやられる。
(門田隆将『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日』PHP研究所、2012)

 

 おはようございます。門田隆将さんといえば、光市母子殺害事件遺族の本村洋さんを描いた『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』と、福島第一原子力発電所の事故を描いた『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日』の2冊がパッと頭に浮かびます。どちらも読み始めたら止まらなくなる作品で、それぞれ映像化もされています。前者はドラマに、そして後者は『Fukushima 50』(若松節朗 監督)というタイトルで、映画に。その映画『Fukushima 50』が一昨日の金曜日に公開されました。ちなみに『Fukushima 50』の「フィフティー」というのは、事故発生時に発電所に留まって対応業務に従事した約50名の作業員たちのことをいいます。

 

 

www.youtube.com

 

 

 先日、映画『つつんで、ひらいて』(広瀬奈々子 監督)を映画館で観たときに、この予告編が流れました。門田隆将さんの原作といい、渡辺謙さんといい、佐藤浩市さんといい、そして海外も意識しているであろうタイトルといい、力の入れようが伝わってきて、観たいなぁと思いました。観たいというか、日本人として「あの日、何があったのか」を観て知っておくべきというか。公式ページ(https://www.fukushima50.jp/)にある海外版予告編もその気持ちに拍車をかけます。福島第一原発所長として、最前線で指揮を執った吉田昌郎さんだって、死の淵の向こう側から「あの日、何があったのか」をより多くの国民に知ってほしいと願っているに違いありません。

 

 

 門田隆将さんの『死の淵を見た男』を再読しました。この本に描かれている物語は、原発の是非とか、責任の所在とか、そういったことを追求するものではありません。イデオロギーの彼方で《吉田昌郎という男のもと、最後まであきらめることなく、使命感と郷土愛に貫かれて壮絶な闘いを展開した人たちの物語》です。巨大震災と大津波によって、自らの「死の淵」と、国家の「死の淵」と、郷里福島の「死の淵」に突如として立たされた人たちが、何を思い、どう行動したのか。門田隆将さんは取材を積み重ねることによって、亀を追いかけるアキレスのように「限りなく事実に近い事実」に迫ります。そこに読者をミスリードするような政治的な匂いは感じられません。冒頭の引用にあるように、菅直人元首相にも取材し、全方位的な視点から物語を描きます。

 

 だから観たかった。

 

 予告編が流れたときに門田隆将さんの原作を思い出し、あの本をベースにした映画なら観たい、そう思いました。

 

 ところがです。

 

 昨日、作家の平野啓一郎さんが 《僕はこの映画は見てないし、見ませんが、見る人は事前に読んだ方がいいレビューでしょう。その上で、個々の映画の評価はあるでしょうが。》と不穏なことを Twitter でつぶやいているではありませんか。レビューというのは、次の記事のことです。

 

 

gendai.ismedia.jp

 

 タイトルにある「事実の加工」というのは、限りなく事実に近い事実を伝えようとしていた「原作を加工」しているということです。レビューを書いた中川右介さん曰く《当時の民主党、菅直人政権を批判するためのプロパガンダ映画として作られたのなら、その目的は達成されるだろう》云々。映画では「総理」が混乱の元凶のように描かれているとのこと。吉田所長は実名で登場するものの、官邸側の人間は実名では描かれていないとのこと。東電側には取材しているが、菅首相サイドには取材していないとのこと。つまり、そういうことです。官邸側の人間が「事実とは異なる」と訴えたとしても《言い逃れができる作り方をしている》というわけです。原作を読まずに映画館に足を運ぶと、おそらくミスリードされてしまうでしょう。菅直人元首相はろくでもない人だなって。映画『新聞記者』(藤井道人 監督)を観た人が、日本政府はろくでもない組織だなって思うのと同じです。

 

 菅直人元首相はろくでもない人なのかどうか。
 現日本政府はろくでもない組織なのかどうか。
 

 繰り返しますが、門田隆将さんの原作は、そういったイデオロギーを問題にしているのではありません。作品の「はじめに」に《イデオロギーからの視点では、彼らが死を賭して闘った「人として」の意味が、逆に見えにくくなるからである》と書き、前もってきちんと区別しています。だからプロパガンダ映画としてイデオロギーの視点を加えてしまった(とされる)『Fukushima50』は、そのタイトルとは裏腹に、現場の人たちの「人として」の意味が見えにくくなっているのではないでしょうか。まぁ、観ていないからわかりませんが。

 

 現場にイデオロギーは要らない。
 教室にイデオロギーは要らない。

 

 大事なのは、「人として」の意味だから。 

 

 

なぜ君は絶望と闘えたのか

なぜ君は絶望と闘えたのか

  • 作者:門田 隆将
  • 発売日: 2008/07/16
  • メディア: 単行本