田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

鴻上尚史、ブレイディみかこ 著『何とかならない時代の幸福論』より。子育て論として読む。

鴻上 もしブレイディさんのお母さんが人生相談に投稿するとしたら、うちの娘はもういくつになっても海外に行っては帰ってきて汚い格好をして、どうしたらいいですか、みたいな(笑)……。
ブレイディ そんな相談がきたら、なんて答えるんですか?
鴻上 いやもう、子育てというのは「子供を守り育てる」ことではなくて、「健康的に自立させる」ことなんだから、成功したと考えていいと思いますよ、という答えですね(笑)。
(鴻上尚史、ブレイディみかこ『何とかならない時代の幸福論』朝日新聞出版、2021)

 

 こんばんは。先日、理科の単元『人のたんじょう』の学習に入るにあたって、次女が生まれた日の動画を子どもたちに見せました。顔が赤く見えるから「赤ちゃん」なんだよ、なんて説明しつつ、あんなに小さかった次女がもう中学生だなんて、と感傷に浸りつつ。あれから13年経って、子育てモードは「守り育てる」から「健康的に自立させる」へ。このモードの変化は、鴻上さんいうところの「世間」と「社会」に対応しているのかもしれません。本当の意味で自立するためには、自分と利害関係のある「世間」だけでなく、利害関係のない「社会」にいる人たちのことも考えられるようにならなければいけないからです。多様化がどんどん進んでいって、何とかならない時代になるからこそ、健康的に自立させることが子どもの幸福につながる!

 

 

  鴻上尚史さんとブレイディみかこさんの『何とかならない時代の幸福論』を読みました。NHKで放送された対談(「SWITCHインタビュー達人達」+ 未収録分/2020.3.21)と本書籍のために改めて行われた対談(2020. 秋)の2編が収められている一冊です。それぞれのタイトルは、以下。

 

 1 日本の現在地 ―― 私たちはどこへ向かっているのか
 2 社会と向き合う ―― 表現としてのコミュニケーション

 

 息子さんの教育に絡めて『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』のブレイディさん曰く《やっぱり日本を変えるには、教育を何とかしないとダメだなって思います》、続けて『「空気」を読んでも従わない』の鴻上さん曰く《はい。でも教育は、まさに親の問題でもありますよね》とあるように、1も2も「何とかならない教育」について語り合っているシーンが多く、ぼくはイエローと同様に多くの教員に読んでほしい一冊だなと思いました。何とかならない時代に、空気を読んでも従わない「自分の頭で考える」子どもを育てるためにはどうすればいいのか。

  

www.countryteacher.tokyo

 
1  日本の現在地

 2019年、日本に台風が来た時、どこかの避難所でホームレスが入るのを役所から断わられましたよね。実はイギリスでもニュースになってました。BBCが報じてたのかな、新聞にも載ってましたし。
 その時、息子が言ったんですよ。「日本人は、社会に対する信頼が足りないんじゃないか」って。

 

 これはブレイディさんの発言です。 この発言を受けて、鴻上さんは《そのホームレスを断わった人は世間に生きている》とつなげます。世間というのは、鴻上さん曰く《自分と利害関係がある人達のこと》、社会というのは《自分と全く利害関係のない人達のこと》です。別の表現をすれば「仲間以外は皆風景」の「仲間」に当たるのが世間といえるでしょうか。社会は「風景」ゆえに、ホームレスも景色の一部に過ぎない。だから避難所から追い出したところで1ミリも気にならない。たとえその人が台風の中で死んでしまったとしても気にならない。ホームレスを断わった人にとって、大切なのは利害関係のある役所の人たちだけだからです。

 

「本当に個人として自分のことを考えたら、そこで誰か生命に対して責任を負うなんてことはしないはずだ」って、ウチの息子は言うんですよ。だから、「周囲の人たちがきっと嫌だって言うに違いない」っていう考えは、あまりにも社会への信頼が足りない。確かに日本にはそういうところは、あるような気がしますよね。

 

 周囲の人たちというのは役所の仲間、すなわち鴻上さんいうところの世間のことです。そうするとこのやりとりにはズレが生じていることがわかります。息子さんの発言は、日本人は社会だけでなく、世間に対する信頼もなくなってきていると捉えることができるからです。世間を信頼していたら、すなわち同じ役所で働く人たちを信頼していたら「周囲の人たちがきっと嫌だって言うに違いない」っていう考えにはなりませんから。イエローでホワイトで、ちょっとブルーな中学生のぼくの発言は、日本が抱えている「共同体の空洞化」や「自己責任」という問題にもダイレクトにつながっているというわけです。換言すれば、社会という公助に対する信頼も、世間という共助に対する信頼もなくなり、残すは自己責任論に代表される自助だけになってきているということ。鴻上さんが《自助、共助、公助っていう順番はものすごく分かりやすく日本の構造を表わしている》というのも頷けます。

 

 自助 > 共助 > 公助

 

 この日本の構造は、先生の許可がなければ水も飲めないというようなおかしな教育によって強化されているのではないか。生まれつき茶髪の生徒に「髪を黒く染めろ」と強制するようなおかしな教育によって強化されているのではないか。鴻上さん曰く《価値が多様化して、「世間」が弱体化して、「社会」とつながるしかない時代》に、この構造はまずいのではないか。では「社会と向き合う」には、社会に対する信頼を培うにはどうすればいいのか。


2  社会と向き合う

鴻上 なるほど、面白いですね。それを日本でやろうとすると、まず学校の先生をクラブ活動やいろんな雑事から解放してあげないと、準備する時間がないですね。放課後と土日を解放してあげないと、今の日本の先生は悲鳴を上げるでしょうね。

 

 それというのは、イギリスの学校では、政治的・社会的な話題を含め、時事に関連づけるような授業が広く行われているということを指します。いわゆるシチズンシップ教育に代表されるようなものです。ちなみにブレイディさんの息子さんが通っていた中学校(ごく普通の公立の中学校)では、一斉休校のときに、ジョージ・オーウェルの『動物農場』にならって《動物を主人公としたロックダウン下にある社会のアレゴリー(寓意、たとえ話)を書いてこい》なんていう課題が出されたとのこと。日本とイギリスでは、課題のレベルに子どもと大人くらいの差があるような気がするのは、言い換えると「世間」と「社会」くらいの差があるような気がするのは私だけでしょうか。

 

 いろいろな雑事からの解放。

 

 もしも日本の先生たちがいろいろな雑事から解放されたら、ジョージ・オーウェルの『動物農場』や『1984年』を読む先生が出てくるかもしれません。ブレイディさんが『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』の中で疑義を呈している「日本はこのままでは財政破綻する」論について詳しく調べる先生が出てくるかもしれません。演劇教育に興味をもって、表現としてのコミュニケーションを子どもたちに教えようとうする先生が出てくるかもしれません。

 先生が多様化すれば、子どもも多様化します。A先生とB先生とC先生の言っている「価値」が違えば、子どもたちは自分の頭で考えるようになります。そうすれば、子どもたちが大人になったときに、多様化した社会と向き合い、社会に対する信頼の足場を築くことができるかもしれません。何とかならない時代を幸福に過ごすためにも、

 

 放課後と土日の解放を。

 

 私たち教員に、自由を。 

 

   

動物農場〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)
 
一九八四年〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

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