田舎教師ときどき都会教師

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宮台真司 著『終わりなき日常を生きろ』&『マル激(第1034回)』より。オウム&IS&DS完全克服マニュアル。百マス計算より、スケボー。

 私たちは、戦後ながらく、コミュニケーションの自由を求めてきた。しかし自由とは、コミュニケーションの失敗がもっぱら自己責任に帰属されることと同義である。私たちはそうした状況を、かつて一度も生きたことがない。長らく共同体的な存在だったということだ。だからコミュニケーションには失敗がつきものになり、多くの人々にとってこの社会は、「絶えざる不幸」がひたすら「内的」にしか帰属できない世界として意識されてしまう。それが「終わらない日常」ということだ。
(宮台真司『終わりなき日常を生きろ』筑摩書房、1998)

 

 こんばんは。昨夜のマル激トーク・オン・ディマンド(第1034回)は「5金スペシャル映画特集」でした。タイトルは「劣化する社会の中でドキュメンタリーや実話映画が担う重要な役割」。このブログでも紹介したことのある『行き止まりの世界に生まれて』(ビン・リュー 監督作品)をはじめとする5作品(『KCIA 南山の部長たち』、『ある人質 生還までの398日』、『バクラウ』、『聖なる犯罪者』)が取り上げられています。

 

www.videonews.com

 

 5金はいつも無料。

 

 マル激トーク・オン・ディマンドは、1999年に神保哲生さんが開局したニュース専門インターネット放送局のメイン番組です。普段は有料。でも5金は無料。神保さんと社会学者の宮台真司さんのトークがただで視聴できるなんて、神も仏も、いる。ひとたび視聴すれば、宗教の中に閉ざされるのとは逆に、劣化する社会の中でどうやって生きていけばいいのか、そのヒントをさまざまな角度から考えることができます。

 

 宗教の中に閉ざされる。宗教によって正当化した瞬間に、他の政治的な観点を取り入れる可能性が全部奪われてしまう。

 

 デンマークの伝記映画『ある人質 生還までの398日』(ニールス・アルデン・オプレフ、アナス・W・ベアテルセン 監督作品)についての宮台さんのコメントです。ある人質というのはIS(イスラム国)に囚われるも奇跡的に生還した写真家ダニエル・リューのこと。宮台さん、続けて曰く、

 

 ISのお兄ちゃんたち、いろいろ描かれてますけど、たぶん個人個人では悪い人ではないんだろうね、たぶんね。

 

 オウムのお兄ちゃんたちと同じだなって、終わりなき日常は続いているんだなって、 先週、たまたま宮台さんの『終わりなき日常を生きろ』を再読していたので、そんなふうに思いました。98年に一世を風靡した、宮台さんの初期の代表作。昔はオウム、今だったらIS完全克服マニュアルとか、DS完全克服マニュアルとして読むことができるでしょうか。DSというのはもちろん、ニンテンドーではなくトランプ政権下で話題となったディープステートのことです。

 

 オウム&IS&DS完全克服マニュアル。

 

 

 宮台真司さんの『終わりなき日常を生きろ』を再読しました。「さまよえる良心」と「終わりなき日常」をキーワードとして、98年のオウムの事件とその後を分析した一冊です。

 

 終わりなき日常。

 

 この「終わりなき日常」という言葉は、宮台さんの専門である社会学の本に限らず、教育系の本でもしばしば目にするくらい、あらゆる分野の人たちにインパクトを与えた言葉です。オウム真理教が求めたようなハルマゲドンは起こらない。輝かしい未来も、変革のときもやってこない。それは原発が爆発しても変わらなかったこと、コロナ禍になっても変わりそうにないことを見れば明らか。

 問題なのは、この「終わりなき日常」というのがけっこうキツイということ。特に家庭環境に恵まれなかったり、突出した才能に恵まれなかったりするフツーの人たちにとってはキツイ。現状が変わらないからキツイ。昨夜のマル激のタイトルにもある「劣化する社会の中」では、現状すら維持できないからなおのことキツイ。だから知恵を絞ろう。コミュニケーション・スキルという知恵を。

 

 コミュニケーション・スキルが大切。

 

 本年度、キャリア教育の一環で、総合的な学習の時間に大人をたくさん呼びました。主に保護者ですが、まぁ、担任の呼びかけに応じて「よし、やりましょう」「私の半生を語りましょう」って来てくれるのだから、基本的には「終わりなき日常」をうまく生きているパパやママたちです。そんなパパやママたちが「いちばん大切にしてほしい」と口にするのが、一人の例外もなく「コミュニケーション・スキル」です。

 

 結局、人。やっぱり、コミュニケーション・スキル。

 

 人間関係をうまく構築する力ですね。最近の宮台さんの言葉でいえば、仲間や家族をつくって大切にする力といえるでしょうか。終わりなき日常の中で、劣化する社会の中で、そういった力をつけるためにはどうすればいいのか。冒頭の引用にあるように《コミュニケーションの失敗がもっぱら自己責任に帰属される》ようなキツイ社会の中で、或いは小坂井敏晶さんいうところの《自由に選択した人生だから自己責任が問われるのではない。逆だ。格差を正当化する必要があるから、人間は自由だと社会が宣言する》(『神の亡霊』)ようなキツイ社会の中で、コミュニケーション・スキルを磨くにはどうすればいいのか。ビン・リュー監督の『行き止まりの世界に生まれて』を観ると、少なくとも「百ます計算的なもの」ではないだろうって、そう思います。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 百ます計算よりも、スケボー。

 

 おやすみなさい。

 

 

神の亡霊: 近代という物語

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