田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

川上弘美 著『センセイの鞄』より。ひとつとして、同じ形をした愛は無い。

 くそじじい。わたしは胸の中で言い、それから口に出して「くそじじい」と繰り返した。くそじじいはきっと元気に島を一周でもしているんだろう。センセイのことなんか忘れて宿の小さな露天風呂にでも入ろう。せっかく島に来たんだから。センセイがいようがいまいが、わたしは旅行を楽しむんだから。今までだってずっと一人だったんだから。一人で酒を飲み一人で酔っぱらい一人で愉しんできたんだから。
(川上弘美『センセイの鞄』新潮文庫、2007)

 

 おはようございます。仕事のことなんか忘れて小さな物語にでも入り込もう。せっかくの休日なんだから。仕事が残っていようがいまいが、わたしは読書を愉しむんだから。今までだってずっとそうしてきたんだから。一人で珈琲を飲み一人で読み耽り一人で愉しんできたんだから。とはいえ、

 

 二人で本を読み二人で愉しむのもいいものです。

 

 それが異性であればなおのこと。小学5年生の国語の教科書に載っている『なまえつけてよ』や『わらぐつの中の神様』など、子どものときにクラス全員で物語を読み全員で愉しむことを経験している私たちです。大人以降もそういった愉しみ方を男女で共有できれば、少子化にも歯止めがかかるかもしれません。

 

 

 近しい友人に勧められて、川上弘美さんの『センセイの鞄』を読みました。川上さんの本を読むのは『蛇を踏む』と『溺レる』以来3冊目で、20年ぶりくらいの川上ワールドです。当時の私にはまだ早かったのでしょう。川上さんの作品が織り成す幻想的な空気感に「溺レる」ことはできませんでした。だから今回、友人に勧められて、よかった。勧められなければ川上作品を手にとることはもうなかったかもしれないので、よかった。4冊目も5冊目も読みたくなるくらい、

 

 これは傑作だ。

 

 読後、斉藤美奈子さんによる解説を読んだら《純文学としては異例のベストセラーとなり》と書いてあって納得。谷崎潤一郎賞を受賞し、WOWOWでドラマ化もされたとあって納得。そんなにも話題になっていたなんて、寡聞にして知りませんでした。きっと過労死レベルで働いていたからでしょう。長時間労働は外界に対する興味関心を失わせます。もと高校教師のセンセイが、もと妻に逃げられ、もと教え子のツキコさんと恋に落ちたのも、働き過ぎで外の世界と遮断されていたからかもしれません。

 

 ノーモア、時間泥棒。

 

複数人で本を愉しむパフェの会

 

 以下、ネタバレあり。

 

 七十歳がらみの男性が、三十歳以上も年下の女性と恋に落ちる。その恋愛はしかも、自分が仕掛けたのではなく彼女の側からはじまっており、若者たちの性急さとは異なるスローペースで進行し、にもかかわらず若い恋敵には勝ち、最終的には〈ワタクシと、恋愛を前提としたおつきあいをして、いただけますでしょうか〉と切り出すことで主導権を自らの手に奪取し、ずっと不安だった〈長年、ご婦人と実際にはいたしませんでしたので〉という点さえみごとにクリアし、高校生のカップルのような日々をすごして、静かに人生の幕を閉じるのである。

 

 斉藤さんの解説より。センセイの鞄の中身を意地悪に要約するとそうなります。クラスの子どもがこんなふうに悪ガキっぽく要約したら、綿野恵太さんの「ちっちゃな頃から逆張りで  15で批評と呼ばれたよ」という言葉を贈るかもしれません。では、意地悪ではなく、批評でもなく、素直に読むとどうなるか。

 

 中高年男性は舞い上がるんです。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 だって70代になっても「恋する日常」を生きられるかもしれないって思わせてくれるんですから。しかも30代の女性と、です。あり得ない。そんなあり得なさを間近で目にしたとしたら。そんなにも年齢の離れた男女が居酒屋で仲睦まじく飲んでいたとしたら。

 

「おたくら、どういうんですか」
 突然、男が話しかけてきた。

 

 口には出さないまでも、酔った男が興味をもったように、そう聞きたくなります。さて、二人は「どういうん」関係なのでしょうか。二人はどこから来たのか、二人は何者か、二人はどこへ行くのか。読むと、幻想的な世界と日常が織り交ざった描写を得意とする川上さんの筆致にやられて、

 

 舞い上がります。

 

 舞い上がったまま解説を読むと、冷や水を浴びせられるんですよね。なるほど、斉藤さんのように絶賛する読み手がいる一方で、その見出しに「『センセイの鞄』に涙するバカなオヤジたち」と付けて批評するような読み手もいたのか。そうか、私はバカなオヤジたちのひとりなのか。でも、私の数少ない恋愛経験からいっても、最近観た映画『LOVE LIFE』(深田晃司 監督作品)の「ひとつとして、同じ形をした愛は無い」というメッセージからいっても、どんな形の恋があったっていい。どんな形の愛があったっていい。どういんですかと問われたところで、

 

 その形の確かさは当事者にしかわからない。

 

 わからないからこそ二人で読み二人で愉しむのも、あるいは複数人で読み複数人で愉しむのもいいものです。恋愛小説の場合は、それが男女であればなおのこと。舞い上がったのはオヤジたちだけだったのか。女性は『センセイの鞄』から何を得るのか。冒頭の引用の場面、それって「くそじじい」呼ばわりするほど怒ることなのか?

 

 聞きたい。

 

 先週、新美南吉の『ごんぎつね』を班ごとに愉しんだ後にクラスの子曰く「一人で考えたことと、みんなが考えていたことが違っておもしろかったです」云々。その違いこそが人生です。解釈の多様性を愉しむということ。

 

 読書も然り、人生も然り

 

 そして恋愛も然り。