時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしていることには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。
でも、それをはっきり感じはじめていたのは、子どもたちでした。というのは、子どもにかまってくれる時間のあるおとなが、もうひとりもいなくなってしまったからです。
けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
(ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波少年文庫、2005)
パパ、どろぼうにかじられるよ。
こんばんは。10年以上前、まだ保育園通いをしていた長女に、玄関先でボソッとそう言われました。パパの背後にある真っ暗な「夜」を一瞥してから、神妙な面持ちで、ボソッと。仕事帰り、通知表の作成に追われた、師走の繁忙期だったように思います。
当時は田舎教師ではなく、児童数が1000人を超える都会の大規模校で働いていました。30代あるあるですが、その小学校で研究主任やら主幹教諭やらを任された結果、過労で認知が歪みまくり、さらには人材開発・組織開発の研究で知られる中原淳さんいうところの「残業麻痺」で高まった偽りの幸福感にミスリードされて、かなりの時間(生きるということ、そのもの)を仕事に費やすことに……。
あれはもしかしたらミヒャエル・エンデの『モモ』に登場する時間どろぼうのことだったのかもしれない、とアラフォーになってから長女の発言の意味に気がついても、ときすでに遅し。長女と一緒に遊んだり学んだりするはずだった時間は、もう手の届かないところにいってしまいました。街中で3歳~5歳くらいの女の子を目にするたびに、もっと一緒に過ごしたかったなって、心からそう思います。3歳や4歳や5歳に限らず、我が子のその年齢は、それぞれネバー・エンディングではないですからね。だから給特法に基づく定額働かせ放題のもと、今なお、多くの子育て教員がそのかけがえのない時間を奪われているのかと思うと、時間どろぼうの狡猾さに心底嫌気が差します。大切なのは、血ではなく、
ともに過ごした時間。
何言ってんの? 子どもは時間。
面識は全くありませんが、高校のときの同窓の大先輩、映画『そして父になる』の監督である是枝裕和さんも、登場人物(リリー・フランキー)にそう言わせています。子どもと一緒に過ごせないと、父親にだってなれないということでしょう。子どもと思うように過ごせなかった男は、いったい何になるのでしょうか。
ミヒャエル・エンデが予言し、是枝裕和さんが固めた「子どもにかまってくれる時間のあるおとなが少なくなっている」説にもっと耳を傾けるべきだった。そんなことを考えながら、昨日と今日、長女が通っている中高一貫校の文化祭に足を運んできました。どろぼうにかじられるよ、って教えてくれた長女も、あんなに小さかった長女も、あっという間に中3です。
〇〇ちゃんのパパ、こんにちは。
〇〇さんのお父さん、こんにちは。
素敵な学校です。自宅に遊びに来てくれたことのある長女の友達が、祭りの気分そのままに、ポップなトーンであいさつをしてくれます。村上春樹さんの『回転木馬のデッドヒート』(講談社文庫、1988)に書かれている《僕はときどき妻の友人くらい夫にとって奇妙な存在はないような気がするのだが》という文章を思い出して、「僕はときどき娘の友人くらい父親にとって奇妙な存在はないような気がするのだが」っていうのも言い得て妙だなぁなんて考えたりしつつ、非日常感たっぷりの文化祭を満喫しました。
それにしても、自主性がしっかりと育っている生徒が多くて、先生たちには感謝の念が絶えません。9月2日(月)の始業式から今日まで、おそらくはほとんどの先生が7連勤のはず。過労死レベルは間違いなく超えているだろうな~。家族との時間、大丈夫かな。きっと大丈夫じゃないだろうなぁ。申し訳ない。
長女のクラスは、4姉妹の成長を描いた『若草物語』の劇にチャレンジしていました。父親不在のまま、少女たちはリトル・ウィメンヘ、ってところが、私にとっては悲しい。
我が子とともに過ごす時間。
もうこれ以上、誰も、かじられませんように。