僕は、今の自分が、若い頃に考えてきた自分よりも保守的な気がしているんです。今年のお正月も、十数人で新年会をやって書初めをした。そういうのが意外と嫌いじゃない。お年玉配って、みんなでボーリングして、焼き肉食べて、今年も頑張りましょうと言って。こういうのは昔は大嫌いだったのにと思っているんです。テレビマンユニオン時代は、新年会や忘年会には一度も出ていないのに。わからないもんだな。
(是枝裕和、樋口景一『公園対談 クリエイティブな仕事はどこにある?』廣経堂出版、2016)
こんばんは。クリエイティブな仕事とクリエイティブでない仕事があるのではなく、その仕事をクリエイティブにこなす人とそうでない人がいるだけだ。そんな話が、映画監督の是枝裕和さんと電通の樋口景一さんとの公園対談『公園対談 クリエイティブな仕事はどこにある?』に出てきます。
なるほどたしかに。
とはいえ、制度上、クリエイティブな仕事になりにくいものもあります。例えば小学校の通知表にかかわる仕事。昨日のブログにそのことを取り上げ、クリエイティブ(?)に書きました。
心を裸にすることができず、退屈にならざるを得ない通知表。でも、昔は違ったんです。四半世紀くらい前、卒業生に「是枝裕和」の名を連ねる都立高校への入学が決まっていたわたしに、中学校生活最後の通知表を通して、担任の先生はこんな赤裸々なメッセージを届けてくれました。職場の飲み会を欠席するたびに思い出します。
集団行動ができる人になってほしい。
思いの乗った、矢の如くストレートな文章です。山田詠美さんの小説のタイトルをもじれば、ぼくは集団行動ができない。そんな感じ。その良し悪しは別として、長く心に残るのはやはりこういった歯に衣着せぬ言葉なのかもしれません。なにせ四半世紀も前の話なのに昨日のことのように覚えていますから。まぁ、しかし今だったら、間違いなく教頭や校長の赤が入ります。
っていうか、赤、入れろよ。
ぼくは確かに集団行動(勉強)ができないよ。でも、集団行動(勉強)よりも素敵で大切なことがいっぱいあると思うんだ。
本を読むとか。
家族や気のおけない人と一緒に過ごすとか。
「セックスすると、成績が下がるって証拠でもあるんですか?」
(山田詠美『ぼくは勉強ができない』新潮社、1996)
忘年会スルーすると、職場の士気が下がるって証拠でもあるんですか(?)。あるかもしれない、の反対。
職場の忘年会に参加しない「忘年会スルー」が話題だそうです。12月10日のNHKニュースウオッチ9でも取り上げられたとのこと。ブロガーのインクさんに教えてもらいました。
なんかもう、すっかりインクさんにはまっています。マイ・トレンドというか、次代の英雄というか。ブレイク前から大好きだった髭ダンが今年ブレイクしたので、インクさんもやがてブレイクするでしょう。
そんなインクさんが同じ職場にいたら、そしてインクさんが忘年会に参加するのであれば、集団行動の苦手なわたしも忘年会に参加するかもしれません。要するに、そういうことです。是枝さんも書いているように、忘年会に対する思いは、職場や年齢によって変わります。だからスルーすることを金科玉条とするのではなく、その都度、行くか行かないかを自分で決めればいい。ただそれだけの話。行かないことによって何かよからぬことが起こるのであれば、そもそもその職場はあなたにとって「よからぬ」ところなので、とっとと辞めたほうがいいかもしれません。きっとそこは、安心・安全な場ではないのだから。
初任校では、忘年会をスルーしたことはありません。忘年会ってこういうものなのかぁ、という新鮮さがあったし、漁師町の小学校だったので、海の幸の新鮮さが楽しみで仕方なかったからだと思います。集団行動ができないなんてことは、すっかり忘れていました。
田舎教師ときどき都会教師さんはきっと来ないだろうから、幹事長にして、無理矢理にでも来させないと。そもそも忘年会は仕事なんだから。そんな職場もありました。スルーしました。ごめんなさい、四半世紀くらい前から集団行動ができないんです。
人間の能力は、状況によって変わります。
だからこの子はもうダメねとか、あの子はもう大丈夫とか、集団行動ができるとかできないとか、そういったことは簡単には言えません。ある状況ではクリエイティブになれない子が、別の状況になった途端にクリエイティビティを発揮し始めるなんてことはいくらでもあります。ある集団では「忘年会スルー」な人が、別の集団では「忘年会スルーの反対」になるなんてこともいくらでもあります。
忘年会スルーの反対!
今日、仕事の後にハチミツとチョコレートとコーヒーを買って帰りました。明日の忘年会のビンゴに使う景品です。
昔は大嫌いだったのに。
好きになったり、嫌いになったり。
ホント、わからないものです。