「ええとね、体のどこかをちょっと切って血を流すと、すっきりするような気が、しない? それで、ためしてみたくてね。でもこわくてね。……子供の涙っていうのは、強いものね。いろんなことを思い出したわ。あなたがまだ小さくて、育てることに夢中だった若い頃のことを。」
母の笑顔はもうすっかり明るかった。
「お父さんといるのって、そんなに大変だったの? このあいだの旅行でさ。」
私は言った。道はがらんとして人通りも車も少なく、光にさらされて白っぽく見えた。少し眠い昼だった。
「いいえ、なによりもね、お母さんだけが歳をとって、あの人が全く変わっていないことがショックだったのよ。」
(吉本ばなな『うたかた/サンクチュアリ』新潮文庫、2002)
こんばんは。今日の出勤のお供は吉本ばななさんの『うたかた/サンクチュアリ』でした。
妻の本棚から拝借した1冊。
本好きの夫にとって、妻の本棚くらい奇妙な存在はないような気がします。それはちょうど妻の友人くらい奇妙な存在はないような気がするのと同じです。
量子力学をもち出すまでもなく、私の本棚にも妻の本棚にも同時に存在している本があります。例えば村上春樹さんの本。1冊であればそれほどの意味をそこに見出すことはできませんが、それが10冊、20冊となると話は別です。そこには人と人とを結び付ける形而上学的な足場みたいなものが確かに存在するように思えます。一方で、私の本棚には1冊もないのに、妻の本棚にはかたまりとして存在しているものもあります。例えばそれは、
吉本ばななさんの本。
先日、妻が高校生のときに読んだという『キッチン』を借りて読み、何だか妻の高校時代の友人と話をしているような妙な気分になりました。妻の本棚は過去につながる「サンクチュアリ」みたいなものなのかもしれません。
吉本ばななさんの『うたかた/サンクチュアリ』を読みました。妻の本棚から拝借した2冊目の本です。
処女作の『キッチン』とともに、1989年の芸術選奨文部大臣新人賞を受賞している『うたかた/サンクチュアリ』には、私生児の少女と捨てられた少年が「もしかしたら父親がいっしょかもしれない」と疑いながらも止まらない恋に落ちていく『うたかた』と、大切な人を失った男女が出会い、再生していく『サンクチュアリ』の2編が収録されています。
冒頭に引用したのは『うたかた』の一節です。お父さんというのは、母子家庭で育つ私生児の少女・鳥海人魚(とりうみにんぎょ)と、父子家庭で育つ捨てられた少年・高田嵐が「もしかしたら父親がいっしょかもしれない」と疑うドン・ファンみたいな男性のこと。どんなふうにドン・ファンなのかといえば、家の庭に捨てられていた少年をひとりで育てちゃったり、ある日突然、ネパールに行ってしばらくそこで暮らすと決めちゃったりするところです。
「だってもう人魚も大学生だし、これからはどんどん自立していっちゃうでしょう。たまには自分からなにかに飛び込んでいかないとねえ、どんどん老け込んでしまうわ……。」
鳥海人魚の母親は、子宝に恵まれながらも一度も一緒に暮らすことのなかったドン・ファンに同行してネパールへ行くことを決意します。カトマンズへ発つ母親を見送った人魚はそのとき19歳。嵐は21歳。それぞれ独りになった二人は止まらない恋に落ちていくのですが、母親はドン・ファンに散々振り回された挙句に単身帰国し、冒頭に引用した場面と相成ります。小説のメインとなる人魚と嵐の恋よりも、ドン・ファンと母親に反応してしまうわたし。
もしかしたら吉本隆明さんがモデルなのかもしれない。
ドン・ファンのモデルは吉本ばななさんの父親である吉本隆明さんなのかもしれない。なんて思ったことは、まるでなく、ただ、当時まだ二十代の前半だった吉本ばななさんが《……子供の涙っていうのは、強いものね。いろんなことを思い出したわ。あなたがまだ小さくて、育てることに夢中だった若い頃のことを》とか《お母さんだけが歳をとって、あの人が全く変わっていないことがショックだった》とか、なぜこんなにもわたしに刺さりまくる文章を書けるのかと、その豊かすぎるというかリアルすぎる想像力に「やはり父親か」と思ったのは確かです。何しろあの『共同幻想論』の作者ですからね、吉本ばななさんの父親は。我が子にも遺伝してしまうくらいの想像力がなければ書けません。
見立てるという行為は、想像力に支えられている。そして、想像力は、わたしたちを育んでくれた自然や生活と深くかかわっているのだ。
小学5年生の国語の教科書に『見立てる』という説明文が載っています。作者は数学者の野口廣さん。キーワードは「想像力」です。
教科書的には、吉本ばななさんの想像力も生育環境によるところが大きいということになるでしょうか。生育環境、すなわち親です。
本棚は想像力のサンクチュアリに見立てることができる。まとめる(?)とそうなります。長女の本棚に『キッチン』を忍ばせつつ、
やはり親か。