(前略)そういえば「僕」という主人公も、フリー・ライターで三十四歳の独身の男の子にしては、できすぎている。つまり作者の精いっぱいの理念と感性と資質を与えられて、作者の理想と等身大になっている。社会的には比較的自由なゼロにセットされているのに、この「僕」はなかなかに偉大だ。これはどんなに読者の夢をかりたてるかはかりしれない。村上春樹に漱石とちがうところがあるとすればそこだ。
(吉本隆明『ふたりの村上』論創社、2019)
おはようございます。臨時休校の延長が現実味を帯びてきました。昨夜の日経電子版によると、東京都は5月の連休明けまで休校措置を延長する方向で調整しているとのこと。埼玉都民や神奈川都民という言葉があるように、都だけでなく首都圏という広域で対策を講じなければ効果は期待できないことから、おそらくは東京都に隣接する各自治体も「右へ倣え」となることが予想されます。東京都、なかなかに偉大です。この決断に関しては、生命尊重に「〇」をつけてもいいのではないでしょうか。まぁ、実際のところどうなるのかはまだわかりませんが、首都の英断を受けて、今日、私の勤めている県の教育委員会がどのような判断をするのか。子どもたちに求めるのと同じような「道徳的判断力」を、社会的地位のある大人に期待したいと思います。
東京都、Good job!
ふたりの村上の「Good job!」を論じた、吉本隆明さんによる「村上春樹・村上龍論集成」を読みました。吉本隆明さんがふたりの作品からその「思想」を取り出し、詩人が句読点でも打つかのように、知的に、そしてリズミカルに批評した一冊です。批評の対象となっているふたりの作品は以下の通り。
村上春樹
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
ノルウェーの森
ダンス・ダンス・ダンス
国境の南、太陽の西
ねじまき鳥クロニクル
アンダーグラウンド
村上龍
コインロッカー・べービーズ
ニューヨーク・シティー・マラソン
愛と幻想のファシズム
ヒュウガ・ウイルス
冒頭の引用が印象に残りました。春樹さんの作品に登場する「僕」の魅力を語った文章です。引用の後半、主人公の造型を評して《これはどんなに読者の夢をかりたてるかはかりしれない》とあります。その昔、春樹さんの作品を読むたびに、「こんなふうになりたい」って、確かにかりたてられました。ほとんどの作品に出てくる「僕」にも、『ノルウェーの森』に出てくる「永沢」にも、『ダンス・ダンス・ダンス』に出てくる「五反田君」にもです。永沢と五反田君はサブの主人公ですが、「僕」にせよ彼らにせよ、何だかカッコいいんですよね。夏目漱石の作品の主人公たちが《しかるべき社会的な外観をととのえた人物にひそむ卑小な、でも真実のこころ》をもっているのに対して、春樹さんの「僕」にはしかるべき社会的な外観はないけれど、《偉大な欠陥のないこころ》を発揮しているんです。何者でもない私のような読者には、このカッコよさが、ぴったりとした形容詞を文章に入れるみたいに、こころの中にスッと滑り込んできます。
すくなくとも「僕」はなんのわだかまりもなく女性のふところ近くまで入ってゆける性格として造型されている。これは願望も含めて若い読者には魅力的な性格に違いない。「僕」はやさしくて、ある程度突っこんで誠実に向きあい、話し、つきあいながら、女性を傷つけない術を心得ている。キザにもならず、とくにしゃちこばりもせず、女性になかなか健全な、しかもセンスのあることをいう。
まぁ、いないですけどね、そんな「僕」。しかし漱石の主人公よりは親近感というか、特に若い頃は憧れを覚えやすい。春樹さんの主人公は、社会的には比較的自由なゼロにセットされているからです。だからファンが多い。ちなみに龍さんの作品の主人公はたいていの場合ぶっとんでいるので、漱石とは違う意味で、親近感や憧れを覚えることはありません。
春樹 社会的地位はないけれど、こころは偉大。
漱石 社会的地位はあるけれど、こころは卑小。
《踊るんだ、何も考えずに、できるだけ上手に踊るんだ》というテーゼで有名な『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公「僕」について、吉本隆明さんは次のように書いています。主人公の「僕」が、世の中の不条理に対して珍しくまじめな呪詛を唱える場面で、ときどき転調するかのように「かっこう」と口ずさむことに注目してのコメントです。
(前略)それは世界没落感や終末感が滑稽になって、まして世界救済感が見当ちがいの錯誤に陥っている現在を、幾分かは滑稽化し、幾分かは愉しく笑いとばしてしまわなければ、つじつまがあわないことを、この作者が見事に感受している象徴だとおもえる。
数日前、新型コロナウイルスの感染拡大を受けた経済対策で、政府与党内から「お肉券」や「お魚券」の発行が検討されているというニュースが流れました。新型コロナウイルスが猛威を振るっているのに、日本の世界救済感のみが見当ちがいの錯誤に陥っているのではないか。春樹さんのファンでなくても、そう思ったのではないでしょうか。カッコよさだけではやっていけない。まじめな呪詛を唱えなければいけない。それくらいのっぴきならない状況になっている。ノーベル文学賞を期待されている国民的作家が感受していたことを、今や国民の多くが感受しているということです。
もしも臨時休校の延長が現実にならなかったとしたら。
かっこう。