田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

村上春樹 著『猫を棄てる 父親について語るとき』より。降りることは、上がることよりずっとむずかしい。

 それが僕の子供時代の、猫にまつわるもうひとつの印象的な思い出だ。そしてそれはまだ幼い僕にひとつの生々しい教訓を残してくれた。「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」ということだ。より一般化するなら、こういうことになる――結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す。
(村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』文藝春秋、2020)

 

 こんにちは。我が家のお隣さんは中国人 Family です。ベッドに入るときに窓を開けたままにしていると、ときおり夜空を伝って中国語が聞こえてきます。引っ越してきたばかりの頃は、何だか旅先のゲストハウスにいるみたいだなぁと、バックパッカーだったときのことを思い出して、しばしば懐かしい気持ちになりました。中国、また行きたいなぁ。

 

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北京の国際ユースホステルにて。市街を望む(2001)

 

 お隣さんは猫を飼っています。最近、我が家の庭によく遊びに来るようになりました。昨日は1階リビングにある掃き出し窓の目の前までやって来て、縁台に座り、網戸越しに物欲しそうな表情で鳴いていたらしく、仕事から帰ってきたら長女がそのことをちょっと興奮気味に語っていました。棄てられたのかにゃあ(?)とは言ってなかったものの、「中国」であったり「猫」であったりが、仕事帰りの車内で読み終えた村上春樹さんの新刊『猫を棄てる  父親について語るとき』とリンクして、「父親」としては興味深く思いました。

 

 中国、猫、父親。

 

 

 村上春樹さんの新刊『猫を棄てる  父親について語るとき』を読みました。猫にまつわる2つの印象的なエピソードとともに、父親である村上千秋さんと、自身のルーツについて綴った一冊です。

 

 エピソード 1/猫の帰還

 

 小学校の低学年くらいの年齢だった春樹さんが、父親と二人で自宅から2キロメートルほど離れた海辺に猫を棄てに行く話です。理由は覚えていないとのこと。現代の海辺のカフカくんは「不条理だ」と怒るかもしれませんが、当時は「猫を棄てる」という行為が不道徳なこととしては捉えられていなかったそうで、世間から後ろ指を指されることもなかったようです。父が自転車に乗り、ひとり息子が後ろに乗って、もう大きくなった雌猫を入れた箱をもつ。シュールな光景です。

 

かわいそうやけど、まあしょうがなかったもんな。

 

 そのように言う千秋さんも、実は幼少期にその雌猫と同じような体験をしています。春樹さんは《父は小さい頃、奈良のどこかのお寺に小僧として出されたらしい。おそらくはそこの養子になる含みを持って》と書いています。6人兄弟の次男であった千秋さんは、春樹さんの祖父にあたる村上弁識さんに「口減らし」のために棄てられたというわけです。ただしこのこともまた、当時それほど珍しいことではなかったとのこと。もちろん世間の常識がどうあれ、棄てられた猫や棄てられた千秋さんが「常識だからしょうがない」と納得できたかどうかは別です。

 

そのときの父の呆然とした顔をまだよく覚えている。

 

 海辺に棄てられた猫ですが、なんと、自転車の二人よりも早く「自宅」に帰ってきているんですよね。ハッピーエンドです。呆然とした後、千秋さんは《いくらかほっとしたような顔になった》とのこと。読んでいる私もほっとしました。その後、その猫を飼い続けることになったそうですが、それは小僧に出された千秋さんも同じで、千秋さんもまた、しばらくして実家に帰還することになります。一見こちらもハッピーエンドのように思えるものの、記憶という点で、猫と人は異なります。春樹さんは《しかしその体験は父の少年時代の心の傷として、ある程度深く残っていたように僕には感じられる》と書いています。過去に損なわれる未来。かわいそうやけど、まあしょうがなかったもんな。

 

 

 エピソード2/最後の猫

 

 村上家の庭に生えていた1本の立派な松の木に、飼っていた白い子猫がするすると登っていったまま降りてこなくなったという話です。梯子も届かないような高いところから助けを求めて鳴いているのに、春樹さんにも千秋さんにも為す術がなかったとのこと。その後、その猫がどうなったのか、死んでしまったのか、それともどこかに行ってしまったのか、それはわからないそうです。この「最後の猫」というか「猫の最後」が、冒頭に引用した《降りることは、上がることよりずっとむずかしい》という教訓につながります。千秋さんが中国大陸で体験した戦争の話に置き換えれば「戦争を体験してしまうと、それ以前の自分に戻るのは難しい」となり、学校現場に置き換えれば「だれかが一生懸命はじめたせいでだれかが一生懸命やめなければならない」(ブログ「ツイートの3行目」より)となります。

  

 2分の1成人式のように、卒業式の過度な演出のように、本年度でいえばキャリアパスポートのように、だれかが一生懸命はじめたことが《ある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す》からこそ、松の木の上で鳴いている子猫を想うことを忘れないでいたい。そう思います。禍を転じて福となす。新型コロナウイルスが、降りることに、やめることに、力を貸してくれることを期待しつつ。

 

 パパ、また来たよ!

 

 にゃあ。

 

 

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

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海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

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