「そういうことは、ここで日々仕事をしておられれば、おいおいおわかりになってくるでしょう。ちょうど夜が明けて、やがて窓から日が差してくるみたいに。でも今のところ、そんなことはあまり気にせんで、とりあえずはここでの仕事の手順を覚えて下さい。そしてこの小さな町に、心と身体を馴染ませて下さい。今のところ、ああ、心配することは何ひとつありません。大丈夫です」
そして手を伸ばして、私の肩をとんとんと軽く叩いた。可愛がっている犬を力づけるみたいに。
ちょうど夜が明けて、やがて窓から日が差してくるみたいに、と私は頭の中で反復した。なかなか素敵な表現だ。
(村上春樹『街とその不確かな壁』新潮社、2023)
こんにちは。先日、クラスの子(♀)に「先生は、ハルキストですか?」と訊ねられました。ハルキストというのはもちろん、小説家の村上春樹さんの熱狂的なファンのことを指します。村上春樹さんの新刊『街とその不確かな壁』を読み終えた日の翌朝に、興奮冷めやらぬ中、子どもたちに少し話をしたんですよね。とはいえ、まだ10歳なのに、よくそんな言葉にたどり着いたなぁと不思議に思っていたところ、野球好きのその女の子曰く「西川遥輝(東北楽天ゴールデンイーグルス)のファンもハルキストって呼ばれていて、検索したら先生が話していた人のことが出てきました」とのこと。謎が解けました。ちょうど夜が明けて、やがて窓から日が差してくるみたいに。
なかなか素敵な表現です。
ミシュレの『魔女』に出てくる《私の正義はあまりにあまねきため》に負けないくらい良い。
村上春樹さんの新刊『街と不確かな壁』を読みました。この作品の原型となった『街と、その不確かな壁』の文芸誌への発表が1980年(著者31歳)。それを大幅に書き直した『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の単行本の出版が1985年(著者36歳)。そしてこの『街と不確かな壁』の登場が2023年(著者71歳)ということで、約40年もの間、ひとつの物語にこだわり続けた末の到達です。なかなかできることではありません。その到達を、たった2700円で味わうことができるなんて、不確かなどではなく、矢の如くストレートなしあわせです。
村上春樹さんの新刊『街とその不確かな壁』を読んでいると、その下敷きになっている『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をもう一度読みたくなる。猪瀬直樹さんの『太陽の男 石原慎太郎伝』を読んだときに、その下敷きになっている『ペルソナ 三島由紀夫伝』を読みたくなったのと同じ。
— CountryTeacher (@HereticsStar) April 16, 2023
前作(?)の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、バックパッカーだったときにネパールで読みました。首都カトマンズのタメル地区にある「読み終わったら半額で引き取ります」的な古本屋で購入し、ヒマラヤを一望できるナガルコットという山地の村に移動してから、日がな一日ゲストハウスで読み耽った記憶が残っています。あの頃、時間だけは文字通り無尽蔵にありました。
私は目を閉じ、時間のことを思った。かつては ―― たとえば私が十七歳であった当時は ―― 時間なんて文字通り無尽蔵にあった。満々と水をたたえた巨大な貯水池のように。だから時間について考えを巡らす必要もなかった。でも今はそうではない。そう、時間は有限なものなのだ。そして年齢を重ねるに従って、時間について考えることがますます大事な意味を持つようになる。なにしろ時は休むことなく刻み続けられるのだから。
なかなか素敵な表現だ。満々と水をたたえた巨大な貯水池のように、というところがなんともいえず良い。
みたいに、とか。
ように、とか。
新刊『街とその不確かな壁』には、村上春樹さんの十八番といえる美しい比喩表現が、これでもか、これでもか、とばかりに出てきます。そのどれもが的確で、優雅で、記念碑的に完璧で、日本語ってこんなにも美しい言語だったんだなって、心から実感することができます。劇団四季が「美しい日本語の話し方教室」という授業を小学校に提供していますが、もしも「美しい日本語の書き方教室」という授業があったとしたら、その授業のテキストにはこの新刊こそ相応しい。だから子どもたちの言語環境の一端というか結構な部分の責任を担っている小学校の教員には、ぜひこの本を手に取ってみてほしい。この美しい日本語に身を委ねてほしい。そんなふうに思います。
とはいえ……。
2時間しか寝ていないというママ先生がフラフラになりながら働いている学校に、それを問題だと思わない学校に、まともな教育なんて期待できないと思う。
— CountryTeacher (@HereticsStar) April 21, 2023
こんなに分厚い本を読む時間はありません。
ママ先生がそういうのも無理はありません。なにせ腕時計の針を外してしまいたくなるような忙しさです。勧めておきながら、「そうだね」って、間違った部屋のドアを開けてしまった人が、へたな言い訳をするみたいに頷くしかありませんでした。長時間労働という壁は、相変わらず高く、分厚く、そして「不確か」に、私たち教員の前に立ちはだかっています。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることのできる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ ―― と言ってしまっていいかもしれない。
あとがきより。ネタバレになるようなことは何も書いていませんが、最後にひとつだけ。昔からのファンにとっては、すなわちハルキストにとっては、限られた数のモチーフがどのように書き換えられているのかがよくわかる「つくり」になっています。そのことをプラスととらえるのか、それともマイナスととらえるのか。
村上作品はあまりにあまねきため、
答えは風に吹かれている。