離れようとしている人間を引き留めることはできない。たとえ親子でも夫婦でも兄弟でも恋人同士でも、どれほど親しい間柄でも、他の人には、他の生き方があり、意に添わないことでも、認めなければいけない場合がある。それは、母から学んだ。母は教師として働いていたので、いっしょに過ごせる時間が短く、幼少時、寂しさを感じたこともあった。だが、それは母には大事な仕事があるからで、わたしといっしょに過ごすのがいやだからではないのだと、繰り返し刷り込まれた。母はそのことを言葉ではなく態度で示し続けた。
(村上龍『MISSING 失われているもの』新潮社、2020)
こんにちは。今日と明日、首都圏は外出自粛ですね。感染症をモチーフにした村上龍さんの小説『ヒュウガ・ウイルス』に《全世界でヒュウガ・ウイルスが猛威を振るうそうです、いずれニューヨークにも被害が及ぶのでしょうか》とあります。新型コロナウイルスの猛威は首都圏にも及ぶのでしょうか。小説の主人公、キャサリン・コウリーの言葉を借りれば、わたしたちはこれから《圧倒的な危機感をエネルギーに変える作業を日常的にしてきたか、を試されることに》なるのかもしれません。そうだとすると、ちょっと、ヤバイなぁと思います。教員の働き方ひとつとっても、問題の先送りばかりが続いていますから。
半世紀以上も前から、ずっと。
危機感ゼロ。
村上龍さんの新刊『MISSING 失われているもの』を読みました。後期高齢者の「奮起」を描いた『オールド・テロリスト』以来、5年ぶりの長篇小説です。どこまでを自伝的小説と言っていいのか、それはわかりませんが、村上龍さんの生い立ちというか「つくられ方」が薄らと伝わってくる内容で、処女作の『限りなく透明に近いブルー』や、村上春樹さんに『羊をめぐる冒険』を書くきっかけを与えたという、出世作の『コインロッカーベイビーズ』など、昔から村上ワールドに親しんできた読者にとっては嬉しい作品です。
自伝的小説といえば、すでに『69 sixty nine』という長篇小説が書かれています。映画にもなった快作『69』が青春小説であるのに対して、『MISSING 失われているもの』は青春のもっと前ともっと後を描いた小説といえるでしょうか。村上龍さん曰く「こんなに楽しい小説を書くことはこの先もうないだろうと思いながら書いた」というのが『69』、そして「こんな小説を書いたのは初めてで、もう二度と書けないだろう」というのが『MISSING』です。繰り返しますが、ファンにとってはたまらなく嬉しい。
「飛行機の音ではなかった」
「処女作の、最初の一行を書いてから、あなたは自分を覆っていた殻を破った」
母は、わたしの処女作を読んだことがない。作家としてデビューしたとき、怖くて読めなかったと言っていた。聞こえてくるのは母の声だが、母はどこにもいない。
自伝的小説『MISSING 失われているもの』には、主人公の小説家が、母の声に導かれながら過去を彷徨い続けるという「創造の軌跡」が描かれています。それがこの小説の核です。途中、処女作が登場する場面があり、思わず本棚から引っ張り出して、しばらくの間ページをめくってしまいました。飛行機の音ではなく、虫の羽音でしたね。限りなく透明に近いブルー、懐かしいなぁ。
限りなくブルーに近いホワイト。
以前のブログ『文科相の「身の丈」発言に思う、移動と、出会いのこと』にも書きましたが、教員の仕事はそう揶揄されることがあります。
厚生労働省の分類によると教師は専門職でありホワイトカラー(死語?)に色分けされます。しかし実際問題として勤務中にやっていることはブルーカラーの特徴とされる肉体労働そのもの。専門職として期待されている仕事の準備は全て勤務時間外に追いやられています。そのため、過労が祟って倒れたり病んだりする教員が後を絶ちません。そういった状況は半世紀以上も前から続いていて、小説の主人公も《母は教師として働いていたので、いっしょに過ごせる時間が短く、幼少時、寂しさを感じたこともあった》と回想します。
子どもが感じる、寂しさ。
言葉は幸福の対極にある。人間が幸福に支配されていたら、言葉は生まれなかっただろう。
小説の主人公は、すなわち村上龍さんは、幸福をデフォルトとすることを拒み、不安であることをデフォルトとして生きています。小説に出てくる精神科医は、そんな小説家に《あなたは、自分が、精神的な不安定さを受け入れることができるというだけではなく、精神的に不安定な自分だけが本当の自分だということも、わかっているはずです》と言います。つまり、寂しさであったり精神的に不安定であったりすることが、言葉や小説を生み出す源泉になっていることを理解しているということです。だから主人公は、村上龍さんは、意志の力で自らを敢えて不安定な状態に置き、決して楽に流れようとしません。吉本ばななさん曰く《「逃げない」の極限が彼》。
足りなさをどう伝えるか。
もと陸上選手の為末大さんが子育てにあたって最も気をつけていることを「足りなさをどう伝えるか」と表現していました。これはおそらく村上龍さんが言っていることと同じです。足りなさを感じない限り、すなわち満ち足りて不安がなくなり、幸福になってしまったら、子どもも大人も何も生み出せなくなってしまう。だからこの「足りなさをどう伝えるか」というのが問題になってくるというわけです。
母親が学校の仕事に追われて我が子に「寂しさ」を感じさせるという伝え方。
「村上龍」という稀代の小説家を生み出した土壌のひとつにそういった、意図せざる「伝え方」があったとしても、それを「是」とはしたくないなぁと思います。寂しさを「表現」に変えて昇華させることのできる子がいる一方で、その寂しさによってダメになってしまう子もいるからです。MISSINGをプラスに変えられる人と、そうでない人。実感としては後者の方が多いような気がします。だから別の「伝え方」を考えたい。
別の伝え方。
新型コロナウイルスによる危機は、別の「伝え方」であったり、別の「働き方」であったりを考えるチャンスです。現在の働き方によって「失われているもの」を考えるチャンスでもあります。五分後の世界は変わらなくても、五年後の世界なら変わるかもしれない。
五年後の世界。
変えましょう。