田舎教師ときどき都会教師

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映画『ソワレ』(外山文治 監督作品)より。映画も授業も、固定概念を捨てて、チャレンジを。

『ソワレ』は、役者志望の村上虹郎が「オレオレ詐欺」で日銭を稼ぎ、劇団員とともに故郷(和歌山)の老人ホームに慰問に出かけ、芋生遥と出会うところから物語が始まる。しかし、ドキュメンタリータッチで描かれる主役の二人に感情移入がしづらく、「点描」に留まり、ドラマが立ち上がらず、〈大丈夫かこの映画・・・・・・〉とわたしは不安になった。30分が経ち、芋生による父親殺しが起こり、やっとメインタイトルが出るや、村上虹郎に手を引かれ、芋生遥が走り出す。
(劇場用パンフレット『ソワレ』東京テアトル、2020)

 

 こんばんは。メインタイトルが30分くらい経ってから出てくる映画っていうのは初めてで、授業でいうと、本時のめあてが30分くらい経ってから出てくるようなものだなって、そう思いました。冒頭に引用した映画評論家の伊藤彰彦さんの言葉を捩れば、「ゴールが定まらず、〈大丈夫かこの授業・・・・・・〉とわたしは不安になった」となるでしょうか。まぁ、動揺を誘うくらいのインパクトがあったということです。芋生による父親殺しのシーンも、おもわず席を立って映画館を出たくなるくらいのインパクトがありました。倒れた父親を置いて二人が走り出すのもわかります。

 

 いや、わかりません。 

 

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劇場版パンフレット『ソワレ』より

 

 先日、映画『ソワレ』(外山文治 監督作品)を観ました。豊原功補さんと小泉今日子さんがプロデュースしたことで話題となった作品です。小学校の国語の授業が「単元を貫く言語活動」をその中心に位置づけるように、外山文治さんの『ソワレ』は「物語を貫く逃避活動」をその中心に位置づけ、観客を魅了します。行き場のない逃避行を繰り広げるのは、主演の村上虹郞さんと芋生悠さん。豊原&小泉のビッグネームに勝るとも劣らない可能性を感じさせる、若き未来のビッグネームです。こんな二人がクラスにいたら、学芸会、盛り上がるだろうなぁ。

 

 ドキュメンタリー作家の森達也さんのコメントを引きます。

 

欠陥と難の多い映画だ。いや多いのレベルではなく剥きだし。だからこそ考える。映画とは何か。光と音が織りなす幻影。二人はどこへ向かうのか。これからどう生きるのか。いってみればここまではプロローグ。エンディングの後の本編をきっとあなたは想像する。それが映画。

 

 メインタイトルが30分くらい経ってから出てくるという構成もそうですが、ろくでもない父親をやむを得ない状況で刺したのになぜ逃げるんだろうという逃避行のはじまりにおける「欠陥」だったり、なぜそこで「お母さん」が出てくるんだろうという逃避行の半ばにおける「難」だったり、ちょっとそれは無理矢理というか「剥きだし」だろうと思える伏線の回収の数々であったり、気になるところは多々あったけれど、だからこそ確かに考えるんです。欠陥と難の多い映画だったのに、なぜこんなにも惹きつけられるのだろうって。映画とは何かって。

 

 欠陥と難の多い映画だったからこそ。

 

 変則性、或いは変則事例と訳される「アノマリー」という言葉があります。科学史家のトーマス・クーン(1922-1996)が提唱した「パラダイム論」の中に出てくる重要な概念で、クーンの代表作である『科学革命の構造』には《変則性(アノマリー)はパラダイムによって与えられた基盤に対してのみ現われてくる。そのパラダイムがより正確で、より徹底したものであればあるほど、変則性(アノマリー)をより敏感に示すことになり、そしてそこからパラダイムの変更に導くのである。》とあります。

 なぜ突然こんな話を始めたのかというと、映画の前後に読んでいた近内悠太さんの『世界は贈与でできている』に、この「アノマリー」という概念が登場していて、まさに『ソワレ』だなと思ったからです。近内さんはクーンの『科学革命の構造』を引きつつ、次のように書きます。

 

 そして、アノマリーがなぜ重要かというと、アノマリーは多くを語ってくれるからです。

 

 映画とはかくあるべしとか、授業とはかくあるべしとか、そういった「かくあるべし」(パラダイム)が強固であればあるほど、アノマリーが生じる蓋然性は高くなります。そしてそのアノマリーには、「映画とは何か」「授業とは何か」を考える上で、その逸脱&偏差ゆえに、役立つ情報が詰まっている(!)といえます。

 

外山 「確実に伝わりやすいものが、いい作品」という固定概念を捨てていく必要がありましたね。

 

 外山文治さんは固定概念を捨てて『ソワレ』を撮った。固定概念を捨てたときに生じたアノマリーが、人生のかくあるべしを蹴った翔大(村上虹郞)とタカラ(芋生悠)の逃避行に重なって、観客の心をつかんだ。監督も翔太もタカラもパラダイムの変更につながるようなチャレンジをしたからこそ《エンディングの後の本編をきっとあなたは想像する》ような映画になった。アノマリーという概念を参照しながら『ソワレ』の魅力を紐解けば、そういったところでしょうか。

 欠陥と難の多い授業だ。いや多いのレベルではなく剥きだし。だからこそ考える。授業とは何か。授業のパラダイムを変更すべく、固定概念を捨てて、チャレンジを。

 

 世界は贈与でできている。

 

 おやすみなさい。

 

 

科学革命の構造

科学革命の構造