人にはそれぞれ事情がある。それを上手にコントロールしながら暮らしていかなければならないような事情を、誰もが持っている。そうして、コントロールしながら、うまく折り合いをつけながら生きていく上で通名が必要になるのなら、それはやはり必要なものなのだとわたしは思う。「民族」「祖国」といったとても大きくて抽象的なことばとかかわる前に、まず人間は毎日毎日生きていかなければならない。
(鷺沢萠『ケナリも花、サクラも花』新潮文庫、2008)
これって、あれじゃないですか。そうかも。2001年3月末、日本ではサクラが、韓国ではケナリが咲き始める頃、ラオスの中南部に位置するサワンナケートにて。
夜、噂には聞いていたものの、見るのも食べるのも初めてとなる「孵化寸前のゆでたまご」が屋台の前で「おいでおいで」しているのを発見。その日の昼に同じ宿で知り合った2歳年下の芳山くん(仮名)が、小田実さんの『何でも見てやろう』をもじって「何でも食べてやろう」と言うので、互いに励まし合いながらおっかなびっくり食べてみました。ビア・ラオに合う(!)と思ったかどうかは忘れてしまったものの、その珍味が気分の高揚に一役も二役も買ったのは事実で、バックパッカー同士、大学生同士、日本人同士、芳山くんと全方位的に意気投合し、数時間にわたって語り合ったことを覚えています。
酔いがピークとなり「大事なのは初等教育だよ。教員資格認定試験を受ければ教育学部じゃなくても小学校の教員になれるから、どう?」なんて、まだ教員でもないのに年上風を吹かせて偉そうに「教育の道」を勧めた矢先のこと。
途上国を旅していて、教育の大切さは痛いほど分かります。子どもも好きだし、小学校も大好きだったし、だからなりたいのはやまやまなんですけどね、と芳山くん。
俺、実は、日本人じゃないんです。
だから多分、教員にはなれません。
酔いがちょっとというか、かなり醒めました。芳山くんは、作家の鷺沢萠さん(故人)と同じ、在日韓国人だったんです。「芳山」という名字も通名とのこと。不意を突かれて、言葉に詰まってしまいました。
《マルチカルチュラルな社会で生きることは、ときとしてクラゲがぷかぷか浮いている海を泳ぐことに似ている》とは、いま読んでいるブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』に出てくる言葉です。感覚としては、まさにそんな感じ。
もちろん芳山くんはクラゲのように刺してきたのではなく、屋台のそばを流れていたメコン川のようにオープンな感じで教えてくれたのですが、人に事情有り、国に歴史有り、とはよく言ったもの。
日本の国籍がないと、公立の小学校の教員にはなれないんですよね。当たり前のことですが、日本で生まれ育って、日本語ペラペラで、どこからどう見ても日本人にしか見えなくて、そして日本のことを大好きでも、公立の小学校の教員になれない。そういった人たちがいるなんて、考えたこともありませんでした。
芳山くんとはサワンナケートで別れた後も何度かメールのやりとりをしましたが、大学を卒業した後に「イギリスに留学します!」という連絡をもらってからは音信不通になってしまいました。ケナリも花、サクラも花。霊長目ヒト科の生き物同士、いつかまたどこかで会えたらいいな。
話は少し変わりますが、芳山くんのように、意気投合できる人と出会うと、職業柄「一緒に学年を組むことができたら楽しいだろうな」と思います。尊敬できる人や相性のよい人、それから石田ゆり子さんみたいな人(?)等々。魅力的な人に会うたびにそう思います。
最近こんな人と同じ学年を組むことができたらめちゃくちゃ勉強になるだろうなぁと思っているのは、ブログ「ツイートの3行目」を書いているインクさんです。本当に小学校の先生なのか(?)、プロの書き手じゃないのか(?)と思ってしまうくらい素敵な文章を綴っています。しかも毎朝6時に。凄すぎです。
教員採用試験の倍率が危機的だとか、教員の質が下がったとか、神戸がどうだとか、桜を見る会がどうだとか、いろいろと報道されていますが、インクさんみたいに優秀な人が教員をやっているっていうことをもっと報道してほしい。そして「教育」に未来を感じさせてほしい。
芳山くんにもまた会いたいし、インクさんにもいつか会ってみたいな。桜を見る会は中止にできても、人々の「何でも見てやろう&何でも食べてやろう、等々」は中止にできない。
ケナリも花、サクラも花。
イエローも人、ホワイトも人。
だからおもしろい。