「そしてね、佐八郎。そういう『他人の視線』を一切気にしなくなると、とても生きているのが楽になるのよ。解放されるわ。自由に生きるとは、他人の視線から自由になるということなのよ。『天然』で空気が読めない態度を取り続けていると、そのうちだれも私の邪魔をしなくなるわ」
「でもエリナ、じゃあ、君は何のために生きているんだい。何を目標にしているんだい」
(岩田健太郎『サルバルサン戦記』光文社新書、2015)
こんばんは。佐八郎とは、ドイツのパウル・エーリッヒ(ノーベル生理学)と共に世界初の抗生物質を作った男として知られる「秦佐八郎」のことです。ハタサハチロウと読みます。出身は『サルバルサン戦記』にも登場する森鴎外や、著者である岩田健太郎さんと同じ島根県です。最近でいえば Official髭男dism を生んだ島根県です。すげ~な島根県。行ったことないけど。
Q 何を目標にしているんだい?
A 紅白歌合戦に出場すること!
目標だったという「紅白歌合戦」にも出場した Official髭男dism の年末(12月28日)のライブ。よかったなぁ。ライブの魅力は、他人の視線から自由になれるところにあります。誰にも邪魔されることなく、とことん解放!
閑話休題。
では、佐八郎の「じゃあ、君は何のために生きているんだい。何を目標にしているんだい?」という質問に対して、髭男ではなく、ビアホールで働くデンマーク人のエリナ(♀)はどんな言葉で答えたのか。
答えは最後に引用します。おそらくは著者である岩田健太郎さんの想いを代弁しているのであろう、カッコいい台詞です。ちなみに数年前に読んだ『サルバルサン戦記』を思い出したのは、昨日読んだ中村文則さんの『教団X』に同じような台詞が出てきたからです。絵になる場面で、絵になる人物曰く《でも比べ過ぎては駄目なの。ねえ、いい? よく聞いて。他の人と比べることなんて、どうだっていいの》云々。どうだっていいって頭ではわかっていても、気になってしまうのはなぜでしょうか。学校現場にいる人間としては、どうしても「教育」がその一因なのではないかと疑ってしまいます。
先生が問う。
子どもが答える。
教室でよく見かける光景です。先生「佐八郎はこのとき、どんな気持ちだったでしょう?」、子ども「ハイハイハイ!」みたいな。『教室はまちがうところだ』っていう有名な詩がありますよね。間違ってもいいんだよ、間違っても先生が受け止める、みんなが受け止めてくれる、だから他人の視線なんて気にしないで、どんどん手を挙げて答えようという詩です。先生が問うことは前提。子どもが答えることも前提。そしてこの詩が多くの共感を呼んでしまうくらいに教室は他人の視線で規定されているということも前提です。
前提は疑え。
「チェーホフの銃」という言い回しがあります。小説の中に銃が登場したら、それは使われなければならない(!)という小説や劇作におけるテクニックのひとつです。中村文則さんの処女作『銃』にもそのテクニックが使われています。つまり、仕事の中に「前提」を発見したら、それは疑わなければならないということ。
子どもが問う。
先生がおもしろがる。
例えばそんな光景を前提にしたらどうでしょうか。子ども「佐八郎はこのとき、どんな気持ちだったのかなぁ」、先生「ニコニコ」みたいな。正解も間違いもないので、教室はまちがうところだ、ではなく、教室は問うところだ、となります。そして教室は先生の問いを生きるところではなく、自分の問いを生きるところになります。
《「質問する」よりも「質問に答える」能力の涵養は、本当の意味での「頭のよさ」を保証せず、むしろ「頭が悪い」原因になってしまう》。岩田健太郎さんの『医学部に行きたいあなた、医学生のあなた、そしてその親が読むべき勉強の方法』より。質問する能力の涵養こそ、教室のレーゾンデートル。
— CountryTeacher (@HereticsStar) January 6, 2020
まぁ、そういったねらいをもって生まれた総合的な学習の時間がねらい通りには機能していない現状を考えると、教室を「問うところ」にするのは簡単ではないということもわかります。しかし少なくとも、質問に答える能力を涵養する教室が、他人の視線を気にするようなかたちでその能力を伸ばしているということには意識的であったほうがいい。そう思います。
佐八郎の「じゃあ、君は何のために生きているんだい。何を目標にしているんだい?」という質問に、エリナはこう答えます。
「私? 私に『何のために』なんてないわ。今生きていること。そのことだけが大事なのよ。私は生きることを、手段ではなく、目的として生きているのよ」
今を生きる。
子どもはもともと「今を生きる」を得意としています。学校に入学する前までは、あれは何だろうって、好奇心をベースにしながら「自分の問い」を生きています。勉強も、手段ではなく目的です。今を生きるのが苦手なのは大人です。問いをもっていないために勉強から遠ざかっているのも大人です。そんな大人の都合で「苦手」を感染させてどうするんだって、感染症医のプリンスと呼ばれている岩田健太郎さんは、たぶんそう思っています。
間違っていたらどうしよう。
おやすみなさい。