近代社会は、自由、平等を原則とする。それは、前近代社会において格差を生みだした身分と搾取という二つのロジックを否定するところに成立した。
(山田昌弘『新平等社会』文藝春秋、2006)
こんばんは。もうすでに他界していますが、大正5年生まれの母方の祖母は、武士の家系(もともとは華族、矢野家)に属していました。女専(戦後、大学に昇格)の卒業証書には名前の上に「士族」と書かれていたそうです。
生前、祖父との結婚については「降嫁」と笑いながら話していました。祖父の家系は謎ですが、京都帝国大学の鉱山学部を出て商工省の役人になっているので、それなりに学のある家系だったのではないかと勝手に想像しています。
自由と平等。
身分と搾取。
江戸時代は「自由と平等」と「身分と搾取」のどちらを原則とした社会ですか?
数年前、6年生の社会科で「江戸時代の農民と町人の暮らし」&「士農工商」について学習したときのこと。
教科書的には、当然、江戸時代は「身分と搾取」に分類されます。教科書と資料集を使って当時の農民と町人の暮らしを調べた子どもたちもそのように読み取っていました。身分と搾取という二つのロジックの上に成立していた庶民の暮らし。しかし本当にそうなのでしょうか。
いわゆる「慶安の御触書」といわてきた史料は、幕府の発布したものではない。
新しい体制(明治政府)が旧体制(江戸幕府)を肯定的に評価するわけがない。
教育の普及(高い識字率)は、社会で上昇できる可能性がなければ有り得ない。
エトセトラ、エトセトラ。
そのようなことを考えると、江戸時代は「自由と平等」と「身分と搾取」の中間くらいの世界だったのではないかと思います。それこそドラマのような「降嫁」もあったのではないでしょうか。
そんなことを子どもたちに語りつつ、続けて「では、近代社会の原則である自由と平等を守っていくためにはどうすればいいか」という話題を、江戸時代の授業から脱線して、ちょっと道徳っぽく子どもたちに投げかけてみました。
自由と平等は先人が勝ち取ったものであり、油断していると先生たちみたいに定額働かせ放題で搾取されてしまいます。過労死レベルで働かなければいけないなんて、そこに自由と平等はありません。もしも現代に小林多喜二が生きていたとしたら、漁船ではなく学校を舞台とした小説を書くでしょう。
なんてことは言っていませんが、ちょうど同じ時期に読んでいた伊坂幸太郎さんの小説『魔王』を例に、「実話ではありませんが」と前置きした上で、6年生にわかるようなかたちで「自由と平等」を守っていくための心構えを説きました。
1945年、ムッソリーニが恋人のクラレッタと一緒に銃殺されるシーン。二人の遺体を前に大騒ぎする野次馬たち。群集の騒ぎがヒートアップしたのは、二人の亡骸が逆さに吊るされたときのこと。なぜかって、クラレッタのスカートがめくれたから。
大きな洪水に流される人。
大きな洪水に流されない人。
ただ、その時にね、一人、ブーイングされながら梯子に昇って、スカートを戻して、自分のベルトで縛って、めくれないようにしてあげた人がいたんだって。
(伊坂幸太郎『魔王』講談社文庫、2008)
スカートを直す勇気はなくても、スカートを直してあげたい、と思うことくらいはできる人間になってほしい。スカートを直す勇気をもった人間と、直そうと思う人間が少なくなったとき、すなわち大きな洪水に流される人が一定数を超えたとき、自由と平等はなくなります。そして、前近代社会において格差を生みだした身分と搾取という二つのロジックが支配する社会が姿を現します。そんな話をしました。難しいかなぁ。
身の丈と定額働かせ放題って、前近代か?
6年生の子どもたちに伝えたかったのは、自分の頭でしっかりと考えて行動しようということ。寄り添うのはOK、でも群れるな、と。そして勇気と関心をもて、と。
警視庁で働いています。
先週、そのときの教え子(♂)から Facebook 経由で連絡がありました。「社会人?」と訊くと、「高校を出てからすぐに働き始めました。警視庁で働いています」とのこと。「クラレッタのスカートの話、覚えている?」とは訊きませんでしたが、正義感の強い、それでいてやわらかいところがある素直な子だったので、天職かもしれないなぁと思いました。
大きな洪水に流さることなく、
勇気と関心を失うことなく、
私も、教え子も、がんばれますように。